2011年6月16日木曜日

五百羅漢見てきた。渾身のドヤ顔だった。

五百羅漢展に行ってきました。

法然上人八百年御忌奉賛 特別展「五百羅漢―増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信」

【公式HP】http://500rakan.exhn.jp/
【会期】平成23年(2011)4月29日(金・祝)~ 7月3日(日)
【会場】東京都江戸東京博物館
【主催】東京都江戸東京博物館、増上寺、日本経済新聞社
【監修】山下裕二(明治学院大学教授)
【企画協力】浅野研究所
【協賛】Color Kinetics Japan、三菱レイヨン、リリカラ

▼宗教図像としての五百羅漢

五百羅漢とは仏教における宗教図像の一つで、簡単に言ってしまえば、釈迦の教えを実践し布教する500人の弟子たちのことです。彼らは釈迦譲りのパワーを身につけ、人々を救済し、悪を懲らしめるのです。
中国で生まれた羅漢信仰は、日本では江戸時代以降に普及します。なので日本画史の中では若い図像ということができ、作例もそこまで多くはありません。

そして今回の狩野一信の五百羅漢は、とーっても分かりやすく、羅漢が5人ずつ描かれた画を100幅制作したのです。5×100の500人。分かりやすいですが、とても燃費の悪い構想をよくもまぁこんなに気合十分に描き上げたものです。(正確にいうと96幅描いた後、没した。)

▼絵師 狩野一信

狩野派というと、室町時代を端緒として、江戸時代には将軍家や皇族という協力なパトロンのお抱えの絵師となり、アカデミック・オブ・アカデミックといった存在です。画風で印象深いのは唐獅子で有名な狩野永徳でしょうか。
狩野派は最も「ゲテモノ」的な絵と縁遠い存在ですが、狩野一信の画風は…失礼ですが「ゲテモノ」そのもの…。
しかし、曾我蕭白や伊藤若冲といった超絶技巧の奇想の画家がそうであるように、現代では狩野一信の絵も人気を博すのでしょう。圧倒的な技巧で、これでもかと言わんばかりに絵で画面を埋め尽くし、観者には嫌悪感にも似た強烈なインパクトを与えます。
第51幅 神通 (増上寺)
過度な装飾を嫌い、シンプルであることを美徳とし、余韻あふれる情緒豊かな表現を尊ぶのが、日本人の「良き」感性でありますが、狩野一信の描く人物の顔、色彩のケバケバしさと言ったらまさに反骨精神の塊でそれが実に気持ちいいのです。曾我蕭白であったり、河鍋暁斎であったり、歌川国芳であったり、いわゆる「『美』をブチ壊す系」の絵師は、ぼくは大好きです。
第50幅 十二蛇頭 路地常坐
あとは秋田蘭画の影響を受けたのか、西洋の合理的な空間把握や陰影法が登場するのもおもしろいところです。この絵なんてドイツロマン主義の風景画家のフリードリヒみたいです。

▼渾身のドヤ顔

ぼく的に見所はひたすら、羅漢さまのドヤ顔。もう本当に渾身のドヤ顔です。もう圧倒されます。
どや?
日本にはイカツイ形相の図像は数多くあります。不動明王、四天王といった図像はいかにも恐ろしい威圧的な面構えをしており、まさに鬼の形相といえます。東大寺の南大門に安置される金剛力士像を思い浮かべるとピンとくる、ああいう系の顔です。
ただぼくが思う「ドヤ顔」とは、すこし違う気がします。威圧的な威厳を放つ怒りの表情がそれに当たるのではなく、尊厳やプライドが滲み出て、高慢とまではいかないまでもどこか自慢気な表情という感じでしょう。
どや?   ドヤッツ!
今では、市民権を得て広く普及したドヤ顔ですが、まさにこういうコッテリ系のおじさまの表情にふさわしい言葉だと思いました。
ふはは、ドヤァァ
普段草食系男子のぼくも、この企画展を見てドヤ顔パワーもらいました。

草食系の男子よ、是非きたれ。

2011年6月13日月曜日

日本の肖像画史っておもしろいんだぜ。

古今東西、美術史上には様々な肖像画があります。そしてその肖像画の中でも、カテゴリもあります。(あまり詳しくないので突っ込んだことは言えませんが。)
肖像画でピンとくるのは臨済宗の僧侶が弟子に渡す肖像画である「頂相(ちんぞう)」ですが、今回は僧ではなく貴人を描いた肖像画である「似絵(にせえ)」とその周辺についてお話ししたいと思います。

▼似絵と頂相は様式も機能も違う

花園天皇像(藤原豪信筆、長福寺蔵)
似絵とは鎌倉時代に興隆した肖像画ですが、特に人物像の個性の表現が顕著に示され、平安時代の絵画に比べ写生的でした。つまり同時代の人物をいきいきと躍動的に描いたのです。こうした違いを感覚的に察知した後の貴族階級の人々は、対象に似せる事を意図して、記録的で写生的な要素の濃いものを「似絵」と称していったと推測されます。「似絵」は、臨済宗の僧の肖像画である「頂相(ちんぞう)」とはその機能や様式的特徴などの点で全く異なり、貴族社会を基盤とする「やまと絵」の範囲を超えるものではありませんでした。

▼似絵のルーツ

彫刻に比べると俗人肖像画のはじまりは早く、平安末期まで遡れますが、当時貴人の肖像画を描くことはタブーとされていました。しかし、平安のロックモンスター(笑)である後白河院は意に介さず、保元元年(1156)に宮廷絵師の高能に鳥羽天皇影を描かせたのが似絵の端緒だとされています。ついで承安三年(1173)には後白河院は最勝光院の御所に平野行啓・日吉御幸の様子を行事絵として光永に描かせて、面貌部分は特に藤原信隆に描くことを命じました。似絵はこうした行事絵とともに発展して、隆信一族は似絵を専門とする家柄として後へと定着していきました。

▼表現的特徴

似絵の表現上の特徴としては、短く引き重ねた描線を主体としたもので、陰影はなく彩色は控えめというもので像主の性格よりも一瞬の表情をつかむことに長じていました。それは像主と絵師との親密な関係を物語るものであり、以前の絵画様式にはなかった表現の段階に至ったのです。

▼頼朝像は似絵ではない。
伝源頼朝像(伝藤原隆信筆、神護寺蔵)
このような表現的特徴からすると、藤原隆信によると伝えられる「伝源頼朝像」(上図)や「伝平重盛像」は厳密には似絵の枠から外れます。なぜならば、何よりも画面が絹地で大きなことがあげられるほか、似絵に見られる親密性は当初から想定されてはいないのです。また彩色が極めて綿密な点も同一の傾向として挙げられます。
「伝頼朝像」において表情は威厳に満ちており、性格を超越した者としての表現が成し遂げられています。俗人ではありますが、十分に礼拝の対象として認知できるし、その目的で制作されたものでしょう。

▼立役者 藤原隆信・信実

似絵の発展は藤原隆信・信実父子に大きく支えられました。まず藤原隆信(1142-1205)ですが、前述のように神護寺に伝わる「伝頼朝像」など非常に有名な肖像画を残したほか、最勝光院の障子絵の人物の面貌のみを手がけました。なぜ面貌のみを手がけたかというと、人物表現に秀でているのはもちろんですが、正四位下の官位を得るほどの廷臣として、また優れた歌人として公卿たちと実際に交友を持ち彼らの面貌の特徴を熟知いていたからです。

後鳥羽天皇像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
隆信の子の藤原信実(1176-1265頃)は似絵の大成者として知られていますが『尊卑分脈』にはその出自が記載されています。また『古今著聞集』や『吾妻鏡』に彼の活躍が記載されています。後者において後鳥羽上皇が挙兵の前に信実に描かせたと記述されるのが水無瀬神宮に伝えられている「後鳥羽上皇像」(上図)でありますが、これは似絵の特徴である像主との親密性や、一瞬の描写を旨とする細い線の重ね引きを端的に表しています。

▼専阿弥と豪信

信実の子である専阿弥の描いた「親鸞像」(下図:京都西本願寺蔵)も似絵の代表作として知られています。ただし、この作品では顔は細密な似絵の様式で描かれているのですが身体の方は抑揚のある太い線によって表されています。また、この一族で最後に挙げるべき画家に豪信がいます。彼の「花園天皇像」は隆信・信実から続く似絵の特徴が見事にあてはまり、似絵の最後期の傑作であるといえます。鎌倉時代の作品として国宝「明恵上人像」(下図)も見過ごすことはできないでしょう。この作品は明恵に近侍していた成忍(じょうにん)の筆とされています。隆信や信実に類似する人物の描き方の特徴も見られますが、風景の描写に優れており、やまと絵的人物に宋画の影響が加わった傑作であるといえます。
親鸞像(専阿弥陀仏筆、西本願寺蔵)

明恵上人(成忍筆、高山寺蔵)


参考文献:
●『日本美術史』監修:辻惟雄


●『日本肖像画史』成瀬不二雄



日本画の肖像画という地味なテーマでしたが、おもしろいと感じた方は+1を!w
まぁ最近の若者はこういうの全く興味ないですよね。趣味が合う人募集中です笑

2011年6月9日木曜日

雪舟と拙宗



今回のテーマは日本美術史の謎のひとつ、「雪舟」と「拙宗(せっそう)」は同じ人物なのかということについて書いていきたいと思います。今の美術史は同一人物だと考えているようですが、議論は確固たる言説を持って終止符が打たれたわけではありません。

▼美術史ミステリー この二人は同じ人物なのか!?

雪舟等楊(せっしゅうとうよう)
拙宗等揚(せっそうとうよう)

雪舟・拙宗同人説は田中一松氏が主張して以来、美術史において徐々に定説化されていますが、とはいえ未だ論争に結論が出されている訳ではなく、狩野永納による『本朝画史』で【雪舟等楊】と【拙宗等揚】を別の項目で記述していることを端緒に、拙宗は雪舟周辺の別の水墨画として扱われてきた経緯が長くあります。

二者を同一人物だと見る見解の主な理由としては、①「せっしゅう」と読める号の音的な類似性、②二者の絵画における画面構成や人物の類似性以外、③両者に共通する賛者がいる事、④拙宗等揚と雪舟等楊の活躍した制作年代の整合性があげられます。雪舟・拙宗同人説を主張する文献には以下のようなものがあげられます。(『雪舟—没後500年特別展—』図録参考)
  1. 田中一松「拙宗等揚について―雪舟等楊と関連して―」『三彩』75、1956
  2. 蓮美重康「雪舟の前半生—拙宗等揚論批判—」『ミュージアム』70、1957
  3. Richard Stanley-Baker「Sesshu Toyo and Sesso Toyo: the issues reviewd」『美術史論叢』12、1996、東京大学文学部美術史研究室
  4. 河合正朝「「雪舟」・「等揚」・「雪舟等楊」—室町時代水墨画研究の再検討にあたって」『墨の彩 正木美術館三十年』1998、根津美術館

 ここでは「同一人物説」を始めに唱えた美術史家の田中一松の説を追っていきましょう。

▼画風の近似

【拙宗等揚】は『本朝画史』の記述によると、雪舟よりは周文に近い描き方であると記述され、雪舟とは隔たりがあるとされますが、いわゆるよく知られているところの「雪舟」の様式的特徴は渡明してから形成されるもので、雪舟の号を名乗る以前は師である周文に大きく画風に影響をうけているのは当然のこととして理解できます。とはいえ、それ以前に【雪舟等楊】と【拙宗等揚】の画風が近似しているのはまず誰もが了解できることでしょう。また【拙宗等揚】の「拙」の字から見ても如拙らの画僧の作風を宗としたことが察せられるので、如拙に多く影響を受け、彼の作品も持っていたという【雪舟等楊】との同一性はより確かなものとなるでしょう。

▼共通の賛者

【雪舟等楊】と【拙宗等揚】の画の共通の賛者に竜崗真圭の存在があげられます。彼は【雪舟等楊】が「雪舟」の号を称するための正当性を付与するための「雪舟二字説」を草した禅僧であり、1462年から1466年まで相国寺の鹿苑院におり(この時期は雪舟が43歳から47歳の年齢)、この頃の竜崗真圭と【雪舟等楊】の関係は非常に深かったと考えられます。

▼制作年代の整合性

竜崗真圭の「雪舟二字説」によると、元の禅僧碕梵楚石の書いた「雪舟」の二大字を手に入れることができて初めて雪舟と号したのです。雪舟が絵を描くようになったのはかなり遅かったと見るべきですが、仮に25歳頃から作品を手がけるようになったとしても、それから20年近くも経たないと「雪舟」の画は現れません(45歳頃から周防に雲谷等楊として頭角を現す)。その間に作品がないのは実に不可解であり、その空白を埋めるのが【拙宗等揚】の作品であるとすると実に整合的です。そもそも、【拙宗等揚】の作品で正木美術館蔵の「破墨山水図」がありますが、その賛者である龍松周省、寿棟、林下清鑑の3人の禅僧は文明年間頃(1469-1489)に在世した人であるから、この「山水図」が制作されたのは【雪舟等楊】の活躍した時期よりやや早い作品ということになり、【拙宗等揚】が【雪舟等楊】に画を学んだということは否定でき、【雪舟等楊】以前の画家であると言えます。

以上が田中一松氏による主張です。さらに蓮美重康氏は著書『雪舟等楊新論』の第四章で田中一松氏の主張内容に賛同しながら、自ら【拙宗等揚】の作品群の分析を加えることで【雪舟等楊】と【拙宗等揚】の同一性、または発展の過程を論じています。【拙宗等揚】の特徴は「山水図」群は破墨の法が未成熟であり、発展途上にあること、そして杜甫や達磨を主題として好んで描いたことなどがありますが、【雪舟等楊】と地続きと考えればどれも納得のゆく特徴であると蓮見氏は述べています。

▼結論はまだ出てない…けど同一人物という認識で大丈夫かと。

ただ、おそらくまだ「100%同一人物である」と言えないのが現状でしょう。しかし雪舟・拙宗同人説についての整合性が妥当であり矛盾点も見当たらないので、ぼくとしてもこの言説に賛同したいと思います。

参考文献:
『雪舟—没後500年特別展—』図録、2002
『雪舟等楊新論』1960年 蓮美重康、朝日出版者

2011年6月2日木曜日

パウル・クレー展を礼賛する記事。

今回足を運んだ展覧会は「パウル・クレー 終わらないアトリエ」です。


パウル・クレー 終わらないアトリエ
PAUL KLEE: Art in the Making 1883-1940


【HP】http://klee.exhn.jp/
【会期】2011年5月31日(火)– 7月31日(日)
【会場】東京国立近代美術館
【主催】東京国立近代美術館、日本経済新聞社
【後援】スイス大使館
【共催】NEC、損保ジャパン、大日本印刷、東レ、りそな銀行
【関連イベント】講演会、コンサート、トークショー

感想を先に述べます。絵に一瞬で魅了されました。大好きです。
作品も充実してますし、章構成も秀逸、文句なしです。(←何様)
タイトルにもあるように礼賛します。

▼展示空間に関して

意図的で質素で無機質な空間がつくられています。クレーの作品を展示するのに相応しいと思いました。しかし、もちろん様々な"妙"が凝らされていました。

  • 章立てを説明するもの(普通はパネルであったり垂れ幕であったりする)は、簡易なボール紙に明朝体で文章が書いてあるだけという質素なものでした。
  • 展示パネル(作品の横にある)は簡素な厚紙をピンで停めただけの、粗雑な印象を与えかねないものなっています。
  • 室内を覆う壁紙なども全くの無機質な白色でフラットな空間を作り出しています。
  • しかし、鑑賞の順路となる導線設計はかなり奇妙なものになっており、まるでクレーの作品の線のように、くねくねと進みながら鑑賞するのです。(途中で混乱して迷いました笑)鑑賞者は不思議な感覚になります。
一見不器用な仕様に見えますが、こうした全ての展示空間における「工夫」が、画家の世界観や企画の主旨を伝えるのに十分に練られたものであることは明白です。

▼展示構成に関して

今回は主旨が「クレーの作品は物理的にどのように作られたのか」に焦点を当てるというで企画であるため、章構成も年代やモチーフを追っていくというよりは制作の「技法」や「スタイル」に焦点があてられています。

  1. 現在/進行形ーアトリエの中の作品たち
  2. プロセス1:移して/塗って/写して
  3. プロセス2:切って/回して/貼ってー切断・再構成の作品
  4. プロセス3:切って/分けて/貼ってー切断・分離の作品
  5. プロセス4:おもて/うら/おもてー両面作品
  6. 過去/進行形ー”特別クラス”の作品たち
起承転結がすっきりしており主催者の意図も明快で、まさにクレーの作品のように企画自体もうまく「構成」されていると感じました。

▼展示作品に関して

本当に素晴らしかったです。何が素晴らしいかを具体的に伝えるのは骨が折れるのですが、この画家の作品を見た後は、なんとも穏やかな気持ちになれるのです。
色彩、線、構図、絵の要素全てが有機的にからみ合って一つの総体を作っています。
《花ひらいて》1934、油彩・カンバス、81.5×80.0cm、 ヴィンタートゥーア美術館
© Schweizerisches Institut für Kunstwissenschaft, Zürich, Lutz Hartmann 
四角形が敷き詰められているだけなのに、大地から花が咲き誇る情景が躍動的に捉えれているように感じられます。この一見無機質で単純な構図の画面なのに、人の心を動かすパワーってなんなのでしょう。すごいです。
《蛾の踊り》、1923、油彩転写・水彩・鉛筆、愛知県美術館
作品に対して惹かれるところは人それぞれですが、ぼくは彼の「色彩」にやられました。この作品は油彩転写(うつし絵みたいなもの)による線描と水彩による彩色で描かれていますが、このグリッドで分割された色彩のグラデーションのセンスの良さといったら筆舌に尽くしがたいものがあります。水彩による微妙なテクスチャの出し方・ニュアンスが本当にかっこいい。見た目の美しさと内面的な精神性が調和しています。

重ねますが、この展覧会は本当に良かったです。上半期ナンバー1かもしれない。展示空間・展示構成・作品が全て合わさって秀逸な企画となっています。企画者まじぱねえ。もちろん、ここでは紹介しきれないほど多くの作品がぼくの心を打ちました…。近いうちにリピートします。

あと会期中の関連イベントで茂木健一郎さんがトークショーをするみたいですね。