これが美学の中でも主要な議論であることは間違いないでしょう。元来人は「美しい」ものを愛し、大事にするものであり、また、そうした普遍的な「美」は存在し、芸術はそういった理想的な概念を追求するものであるという側面を持ちます。しかし、芸術=「美」という方程式は成り立つのかと言われれば、近現代の美術史の流れを外観するだけでも、答えは明らかでしょう。明らかに現代以降の芸術は、凡そ「美しい」と言い難い。
さて、今回の話題は具体的な作品ではなく「芸術やアートって何?」という素朴な疑問を考えたいと思います。
とは言っても深入りしすぎて込み入った話になるのは避け、その問題の歴史的変遷の皮相をざっとなめていきたいと思います。結論が先に知りたければ一気にスクロールしてください笑
1.芸術は模倣である。
というと語弊がありますが笑、artというとそもそも『人工物』『人間が自然に手を加え改変したもの』を意味します。
古代ギリシアではアリストテレスは「芸術は模倣である」と定義づけました。イデア論的理想美の模倣的再現(=ミメーシス)こそが、芸術の本質である論じたのです。つまり、絶対的な美の基準があり、それを視覚化して顕現させること(絵画、彫刻、建築、詩、音楽)こそが芸術であるとしたのです。
この考えは中世キリスト教的世界観で衰退するものの、ルネサンスから再受容されて近代まで通底していると言えます。「模倣できる」観察眼と技巧的表現力を併せ持った者こそが評価されました。
このようなコンテクストの中で制作されてきた作品群はたしかに私たちに美的感動をもたらしてくれます。古代のギリシア彫刻、盛期ルネサンスの絵画などなど。
>15世紀イタリア・初期ルネサンス
>16世紀イタリア・盛期ルネサンス
ラオコーン、ヴァチカン美術館蔵 |
確かに「美しい」。しかし決まりに則ったものが芸術なのか、と。
2.「形」でなく「中身」こそが芸術である。
アリストテレスの芸術論は18世紀の新古典主義まで主流であったと言えます。
しかし、それがロマン主義の台頭によって変わってきます。大事なのは作品という物質的なものが表現している内容であったり精神であったり概念であるのです。モノとしての絵画や彫刻は表現媒体にすぎず、作品であるところのものは、媒体を通して表現された思想・感情・問題・理念などであるのです。
画面構成の美しさなどからくる視覚的感動をもたらすものではなく、意味的・内容的感動をもたらすものこそが芸術であると考えられるようになりました。
アリストテレスが「形式=内容」と論じた芸術論をヘーゲルやニーチェが否定的見解を与え、以降の思想家達は「形式<内容」のもとで議論を展開させて行ったのでした。
こうした内容の優位性が、ロマン主義を経て印象主義、象徴主義、表現主義というように絵画の抽象化を推し進めることを肯定していったのです。
>19世紀ドイツ・ロマン主義
ウジェーヌ・ドラクロワ「キオス島の虐殺」 1824年、ルーヴル美術館 |
3.反芸術こそが芸術である、という倒錯、これがゲイジュツ。
ダダイスム、ミニマリズム、レディメイドなどがこれにあたります。
そもそも既成概念に囚われているものが芸術ではない。額縁に入れられ美術館に飾られタグ付けされ物が芸術なのか?評論家に踊らされているだけだ!そんなものくそくらえ!というような論調。
芸術の否定はあらゆる次元で行われます。
「作る技」としての芸術の否定=「作らない芸術」オブジェ、レディメイド
芸術の産物としての「作品」を否定=「作品を残さない芸術」パフォーマンス
「モノ」としての芸術の否定=「概念としての芸術」コンセプチュアル・アート
写真の登場は「模倣的再現」たる芸術を完全に無力化。
そして
デュシャンが便器に「泉」と名前を付けて作品化する。
ウォーホールがキャンベル缶を並べて描いて作品化する。
…
芸術の価値観はこうして崩されていったのです。もはや「美しさ」は影も形もありません。ただ、これもある種、全く新しい芸術概念の作品化と言えるのです。ただその立ち位置がそれまでと180度違っていただけのことです。
マルセル・デュシャン「泉」 1917年、個人蔵 |
>20世紀ダダイスム
4.めんどいからもう何でも「アート」って呼んじゃっておk!
モダンというパラダイムが終わり、ポストモダンとなったが、今やそれすらも終わり「ポスト・ポストモダン」という時代と論じられています。この時代では、もはや定点はない。多様化の果てにある無秩序のカオス状態。
もはや「芸術」という言葉は死語となり、その代わり「アート」という言葉が超大に膨れ上がり全てを内包するようになったのです。
使用されるメディアの垣根もありません。メディアインスタレーション、空間芸術、映画、身体芸術、さらには、商品デザイン、パッケージ、広告なども「アート」の範疇でしょう。マンガやゲームも最近は「アート」化してきています。
「アート」のカバーする範囲は大きくなればなるほど、当然ながらその定義は脆弱なものとなってい空虚なものとなっています。芸術やアートをどう理解していくかは、個人のリテラシーの問題のようです。悲しいですね。
芸術が「定義」「カテゴライズ」という言葉を拒否し、通用しなくなったということでしょう。極限まで多様化した、なんでもアリの時代。だからこそ、これからキュレーター(情報を整理してメディアにのせる人)が必要になってくるとは思うのですがね。
ここから完全に主観の話になってしまうのですが、ぼくが思うに、
「美しい」「美的な」ものは、プロダクトデザイン、パッケージデザイン、広告といった、商用のものに認められることが多い。プロダクトでいうと、例えばApple製品とかトヨタの車とか化粧品のパッケージとか。外観やUIは誰もが美しいと思えるものだと思います。また最近の広告は非常にアーティスティックなものが多いですよね。このようにアートは商用に使われるものにこそ今は見出されるのではないでしょうか。
逆に「純芸術」なるものは、全く「美しくない」。それ以上の次元のメッセージや概念を媒介し伝達しているのです。
外観としてグロテスク、又は奇怪・奇抜なものが今は主流というか、評価されているように思います。具体例はいっぱいあると思います。
5.双方向的なものの登場
手法は様々ですが、作品が一方通行ではないものが多くなってきています。作品のみで完結するのではなく、鑑賞者の存在があって初めて作品の意味をなす、といったものが古くは、ベラスケス、ゴヤあたりから見出されます。
それが、現代ではデジタル・メディアの発達によりよりインタラクティブな「アート」が増えています。鑑賞者がある行動をすることで、作品がレスポンスする。この応酬が一つの「アート」を創りだすのです。画家の造ったモノと鑑賞者が補完しあってひとつの「作品」となり主題を形成するのです。
この潮流はおもしろいので研究していきたいと思います。
余談ですけど今「ソーシャル」っていうのが日常の友達とのコミュニケーションでやゲーム、さらにはも企業のマーケティングでも、本当にブームでバブリーな感じですよね。そのブームに便乗して、みんなで一つのものを創り上げる「ソーシャル・アート」とかでてきたりして笑 仮説を立ててみるとおもしろいかも…?
ちなみに某携帯のキャンペーンサイトが文化庁メディア芸術祭の金賞を受賞していましたが、ああいうものを「ソーシャル・メディア・アート」と呼んでいるそうです。
ここでは日本の美術史に触れていませんが、今のアートシーンを語るには西洋のコンテクストに途中合流させて考えるのが妥当です。明治以降、日本古来の美は成長を止め、独自の領域の中で静的に完結してしまったのに対して(「日本画」として残る)、西洋の価値観や技法を日本のアイデンティティと調和させた芸術家が、今にいたるアートシーンの流れをつくって流動的に発展史を作っていると言えます。佐伯祐三とか岡本太郎とか、今だと村上隆とか。
サブカルとか考えるとまたややこしいですこど、少なくともぼくは今のところこのように考えます。
あ、あと大前提として、「人の作った物」しか語ってませんが笑、自然って美しいですよね。
この記事をおもしろいって思ってくれた方はこんな本がおすすめです。
・村上隆『芸術起業論』(実はこれめっちゃ美学の考察に参考になりました。現代美術で評価されるためには「今までの芸術のコンテクストを理解し、その先をつくっていく」ことの必要性をキレながら説いています。)
・土佐尚子『カルチュラル・コンピューティング—文化・無意識・ソフトウェアの創造力』(これは例のインタラクティブなアートの最前線です。)
結論
「芸術」というものは、時代によって流動していく形の定まらないものだから、捉えがたく定義すづらい。
「結局わからない」が芸術なのかもしれない。
これが結論かい!
そーだよ!w
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