肖像画でピンとくるのは臨済宗の僧侶が弟子に渡す肖像画である「頂相(ちんぞう)」ですが、今回は僧ではなく貴人を描いた肖像画である「似絵(にせえ)」とその周辺についてお話ししたいと思います。
▼似絵と頂相は様式も機能も違う
花園天皇像(藤原豪信筆、長福寺蔵) |
▼似絵のルーツ
彫刻に比べると俗人肖像画のはじまりは早く、平安末期まで遡れますが、当時貴人の肖像画を描くことはタブーとされていました。しかし、平安のロックモンスター(笑)である後白河院は意に介さず、保元元年(1156)に宮廷絵師の高能に鳥羽天皇影を描かせたのが似絵の端緒だとされています。ついで承安三年(1173)には後白河院は最勝光院の御所に平野行啓・日吉御幸の様子を行事絵として光永に描かせて、面貌部分は特に藤原信隆に描くことを命じました。似絵はこうした行事絵とともに発展して、隆信一族は似絵を専門とする家柄として後へと定着していきました。
▼表現的特徴
似絵の表現上の特徴としては、短く引き重ねた描線を主体としたもので、陰影はなく彩色は控えめというもので像主の性格よりも一瞬の表情をつかむことに長じていました。それは像主と絵師との親密な関係を物語るものであり、以前の絵画様式にはなかった表現の段階に至ったのです。
▼頼朝像は似絵ではない。
伝源頼朝像(伝藤原隆信筆、神護寺蔵) |
「伝頼朝像」において表情は威厳に満ちており、性格を超越した者としての表現が成し遂げられています。俗人ではありますが、十分に礼拝の対象として認知できるし、その目的で制作されたものでしょう。
▼立役者 藤原隆信・信実
似絵の発展は藤原隆信・信実父子に大きく支えられました。まず藤原隆信(1142-1205)ですが、前述のように神護寺に伝わる「伝頼朝像」など非常に有名な肖像画を残したほか、最勝光院の障子絵の人物の面貌のみを手がけました。なぜ面貌のみを手がけたかというと、人物表現に秀でているのはもちろんですが、正四位下の官位を得るほどの廷臣として、また優れた歌人として公卿たちと実際に交友を持ち彼らの面貌の特徴を熟知いていたからです。
後鳥羽天皇像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵) |
▼専阿弥と豪信
信実の子である専阿弥の描いた「親鸞像」(下図:京都西本願寺蔵)も似絵の代表作として知られています。ただし、この作品では顔は細密な似絵の様式で描かれているのですが身体の方は抑揚のある太い線によって表されています。また、この一族で最後に挙げるべき画家に豪信がいます。彼の「花園天皇像」は隆信・信実から続く似絵の特徴が見事にあてはまり、似絵の最後期の傑作であるといえます。鎌倉時代の作品として国宝「明恵上人像」(下図)も見過ごすことはできないでしょう。この作品は明恵に近侍していた成忍(じょうにん)の筆とされています。隆信や信実に類似する人物の描き方の特徴も見られますが、風景の描写に優れており、やまと絵的人物に宋画の影響が加わった傑作であるといえます。
親鸞像(専阿弥陀仏筆、西本願寺蔵) |
明恵上人(成忍筆、高山寺蔵) |
参考文献:
●『日本美術史』監修:辻惟雄
●『日本肖像画史』成瀬不二雄
日本画の肖像画という地味なテーマでしたが、おもしろいと感じた方は+1を!w
まぁ最近の若者はこういうの全く興味ないですよね。趣味が合う人募集中です笑
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