2012年2月12日日曜日

【Ⅱ-(ⅰ)】Das Eismeer, 1824.

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(ⅰ)Das Eismeer, 1824.

(a)成立の背景

ー2つの作品

ザクセン芸術協会の創立者の一人で独自の絵画コレクションでも知られるヨハン・ゴットロープ・クワント(註1)はフリードリヒに、「北方」の自然を主題とする絵画制作を依頼する。当時「南方」と「北方」という図式的な風景画の対が好まれており、「南方」の風景画はヨハン・マルティン・フォン・ローデン(註2)に、「北方」の風景画はフリードリヒに依頼され、クワントはその2枚を対として飾ろうとした。この依頼を受けフリードリヒが制作したのが1822年の《皐月のグリーンランドの海岸で難破した船(=難破した希望号)》(消失)である。クワントは依頼した作品に対して次のように説明している。
「風景画家フリードリヒは、私のためのにローデンの風景と対をなすことになる一枚の大きな絵を描いている。ローデンの絵は、南方の自然が提供するあらゆるやさしいものをひとつにまとめているが、フリードリヒの絵ではそれが北方の示す恐ろしいもの、崇高なものである。切り立った岩の上は雪に覆われ、どのような貧小な草も養分を取ることのできない、そのような岩が入江を取り囲んでいる。そこに嵐が船を押し込み、恐ろしい氷片によって押し潰してしまった。船の残骸、流木、氷塊のこの暗鬱な混合が素晴らしく大きな効果をあげている。フリードリヒは氷の透明性と海緑色の表現に驚くほど成功しているが、彼はバルト海に生まれ育ったので、このような自然風景を観察する機会は少なくなかった。(1822年3月4日付けの画家カルロスフェルトに当てたクワントの書簡。)」(註3)
さらに、当時の批評は作品を詳細に描写している。
「われわれのフリードリヒが考え出し、描いた皐月のグリーンランドの海岸上の難破船。氷山の激しい運動は、このように、嵐によって黒い岩礁に高く積み上げられ、墓地の静寂へと硬直した姿で示すべきである。船の残骸がそこに押し込められている。息づく生命はまったくなく、思考する画家この絵からあらゆる痕跡を消し去ったのももっともである。それは北極の死の眠りである。」(註4)
ここにあるように、1822年の作品は現在確認できる《氷海》と非常に酷似した作品だったことが推測できる。その翌年、フリードリヒは再びこの「北方」の主題を取り上げ代表作である《氷海》が生まれたのであるが、フリードリヒは外発的な依頼に基づいて制作した作品モチーフを気に入り、今度は自発的な創作意欲を満たすために、再度同じ主題を用いたのである。

ーエルベの凍結とパリーの北極探検

氷が船を押しつぶす厳しい北方のテーマを制作した動機は他にもある。1821年、エルベ川が凍結するという事件が起きた。この凍結の様子は、カール・グスタフ・カルス(註5)の文章によってはっきりと表現されている。
「川上から押し寄せる途轍もない力は目には見えないが深部で働き続け、ついには裂け目を生み出し、その亀裂だ対岸に向かって走る。そして、川に生じた新たな水の流れは氷塊があまり大きくなければ、それを押し流してしまうが、やがて流れが再び氷の下に消えていくところでは、この氷塊をすぐまた積み上げるのである。あの彼方から押し寄せる水の威力は最後にはこちらの近くの氷塊も動かして、川岸のエルプベルクに向かって厚い氷塊を幾重にも押し上げ、その厳かな、巨大な姿はさながら打ち寄せる波浪が陸上に溢れ、凝固したかのようである。ーそしてまた静寂となるー。(ドレスデン市門付近での、エルベ川の氷解の光景、抜粋)」(註6)
この文章はあたかも《氷海》の作品記述のようである。フリードリヒもこの事件に際して、観察に出向き習作を残している(挿図1〜3、1820-1821年)。挿図3の習作に見られる矢印形の2つの氷片はそのまま、《氷海》へ引用されている。この氷海の描写は優れた客観性ゆえに、ドレスデンの地質学者、アレクサンダー・ペッツホルトが氷河形成に関する講義の教材にしたほどであった(註7 )。
挿図3《氷海習作》
1820-1821年、ハンブルク絵画館。
挿図3《氷海習作》
1820-1821年、ハンブルク絵画館。
挿図3《氷海習作》
1820-1821年、ハンブルク絵画館。
また1822年に上演されたパノラマ《北極探検の越冬》(ヨハン・カール・エンスレン作)がドレスデンにて反響を呼んだ。このパノラマは1819年から翌年にかけて、イギリスの探検家ウィリアム・エドワード・パリーが北極探検を試み、挫折するという現実の事件に拠っているが、この事件自体、フリードリヒを大きく魅了した。パリーの航海日誌『大西洋から太平洋に至る北西航路発見のための航海の日誌、1819-1820』8は1821年にイギリスで、1822年にはドイツでも出版された。そのパリーの船こそが、「ヘクラ号」と「グライパー号」であり、1822年と1823-24年の2つの作品の中の船を「グライパー号」と同定する言説は少なくない(註9)。この北極での事件にインスピレーションを得てフリードリヒは、《皐月のグリーンランドの海岸で難破した船》や《氷海》の制作に向かったと考えられる。しかしとりわけ《氷海》で象徴されている主題は、単なる一つの歴史的事件の描写ではないことは後に触れるとする。

ー《ヴァッツマン》と《氷海》

1826年ベルリンの展示の際、フリードリヒは《氷海》(図版1)と《ヴァッツマン》(図版2)が向かい合わせになって展示されるように希望した。確かに《ヴァッツマン》は、《氷海》と似通っている。モチーフとしても北方の人をよせつけぬ土地であるという点、三角形を基軸とした幾何学的な構図という点、また、前景・中景・後景の順に視線誘導を促しそれぞれの景が象徴的な意味をなしているという点などから、《氷海》と対になった作品として理解できよう。フリードリヒは展示において北極とアルプスという自然の極地を行き来することで、自身の崇高を効果的に伝えようと意図したのである(註10)。しかし、この展示の意図は1824年の《氷海》完成時から企図されていたことを示す証言や資料は残っておらず、当初は《氷海》は独立して制作されたものと判断する方が良い。

図版1
C.D. フリードリヒ《氷海》
1823-24年、油彩、ハンブルク絵画館。
図版2
C.D. フリードリヒ《ヴァッツマン》
1826年、油彩、ハンブルク絵画館。

(b)来歴

制作を依頼された訳でもないこの作品は、フリードリヒの生前は買い上げられることは無く、フリードリヒの手元に残される。フリードリヒの死後3年後の1843年に遺品の中にあったこの作品をJ.C.C.ダール(註11)が遺族から購入した。その際には《北極遠征の難破船》として管理されていた。1905年には息子 W.S.ダールの未亡人からハンブルク絵画館が買い取り、現在の所蔵に至る(註12)。しかしその時もまた《難破した希望号》として誤った解釈のもと管理された。

(c)受容・解釈の歴史

ー同時代の評価

1823年から24年に制作され、1824年にはプラハとドレスデンで展示された。プラハのアカデミー展に出品されたときの匿名の批評は、「死は造形芸術の対象として、われわれにあまり適していないように思われる。われわれはまったく生命のない、単調な荒れ果てた自然の光景を、画家に勧めたくないと思う。」と評した。ここで「死」と解釈されていることがわかる。ベッティガー(註13)は1825年、この作品は「グリパー号」の難破を描いていると記した(註14)。1826年にはベルリンにて展示された際には皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(註15)は北方の大きな氷はたぶんこんなふうには見えないだろう。」と述べた(註16)。様式や画風においてもフリードリヒと対峙するルートヴィヒ・リヒターは、「それらはわれわれに衝撃を与え、それから突然(脈絡の)糸を引きちぎり、われわれをいらだった感覚に委ねる。」(註17)と述べている。 他にも実名・匿名の批評が数あり、その一部が現在まで残っているが、同時代の評価は総じて芳しくない。
しかし、1834年にフリードリヒのもとを訪れたダヴィット・ダンジェ18は、晩年増々フリードリヒの評価は下がる中で、ポジティブな評価を与えた。その発言の一部は明らかに《氷海》に対するものである。
「それら(フリードリヒの作品)は夢見る心地にさせる。その効果においては詩に匹敵するものがある。彼がいかに風景の悲劇を理解していたか、これには驚嘆に値するものがある。」
 「北の湖の絵は強い印象を与えた。そこでは氷山が船を飲み込み、船はもう残部だけしか見られない。偉大なおそろしい悲劇。誰も生き残らなかった。それはよく考えられている。そうでなければ、注意は分散させられることになろう。」(註19)
ここではフリードリヒの《氷海》に関して現代に通ずる本質的な理解がされている。

ー誤認の歴史

フリードリヒの死後、ハンブルク絵画館に売買する際にW.S.ダールは、今日の《氷海》を「Perri’s Reise(ペリーの旅)」から着想を得たものだと記している(註20)。これは二重の誤解釈を生むこととなった。Perri ペリーという表記からM.C.ペリーによる『ペリー船長の日誌』(註21)から範をとったという誤った解釈を生む。米人ペリーの日誌ではなく、英人パリーによる『大西洋から太平洋に至る北西航路発見のための航海の日誌、1819-1820』からの記述に拠ってフリードリヒは《氷海》と似た作品《皐月のグリーンランドの海岸で難破した船(=難破した希望号)》(油彩、消失。)を1822年にクワントのために制作した。この作品と《氷海》が混同され、さらに「パリー」ではなく「ペリー」の探検によった《北極遠征の難破船》として管理され、ついで本来はクワントが所持していたところの《難破した希望号》として長く受容された。 この入り組んだ混同を指摘し、《氷海》と《難破した希望号》は別の作品であるとの現在の通説を最初に論じたのはW. ステヒョウであった(註22)。

ー研究史

《氷海》の研究は、ステヒョウが混同を指摘し、さらにフリードリヒの評価が回復した1960年代後半より度々行われるようになった。
H.ベエンケンは、この絵に破滅そのものの描写を認めて、極地の海を「人間から遠い孤独の世界、絶対的な死の世界」と呼び、ヴェルナー・ホフマンは、この絵の主題を「自然の猛威という、優勢な敵意にあっての人間の挫折」とみなした。宗教的な解釈としてベルシュ=ズーパンは、そのモティーフが「近づけない神の尊厳の象徴」として選ばれ、その絵は「極地世界の恐怖の描写」ではなく、「厳粛さと崇高性」の表現だという。そして画面構成における建築的な要素を強調して、前景の氷塊の形成を、青い空に向かってそびえる氷山に達するための登らなければならない「神殿の階段」とみなした。政治的な挫折という解釈については、ゲオルグ・シュミットが最初に1949年のバーゼルでの展覧会カタログの中で、挫折した希望が、フリードリヒにとって市民の自由への希望だったことを確認した。W.ガイスマイアーとJ.C.イエンゼンは、社会的状況の中での「ドイツでの全般に渡る凍結」の象徴とみなし、イエンゼンは、中央の氷山について、「この自然神殿の階段は、無に通じている」と記述した。I.エンムリヒも、同じ立場から《氷海》を完全なる破滅の表現と解釈したが、前景の氷塊からなる氷山と遠くの結晶質の氷山に働いた、「自然の法外な形成衝動」についても詳述している。P.ラウトマンは、当時の政治的出来事と密接に連関させ、自然現象の内に現れた時代の移り変わりの意識を精神史的な角度から明らかにするとともに、ダンジェの論じた「風景の悲劇」を崇高や死、悲劇と関連付けて再考した(註23)。

【註釈】


1 Johann Gottlob von Quandt, 1787-1859.
2 Johann Martin von Rohden, 1778-1868. クワントの依頼に対して《隠者のいる風景》(消失)を提供。風景画家としてヨーゼフ・アントン・コッホと並び、当時のドイツ画壇の中で確たる地位を占めていた。
3 仲間裕子『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』、三元社、2007年、128頁より引用。Johannes Grave: Caspar David Friedrich und die Theorie des Erhabenenm Friedrichs Eismeer als Antwort auf eine zentralen Begriff der zeitgenössischen Ästhetik, Weimar, 2001 S.93.
4 前掲『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』、245頁参照。
5 Carl Gustav Carus, 1789-1869. 医者にして画家であり、ゲーテ的精神に影響された万能人の一つの典型。彼の『風景画に関する九つの書簡』はロマン主義絵画に関する基本的な理論的著作の一つである。フリードリヒとの親交も深かった。
6 神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年、108頁より引用。
7 前掲『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』、132頁参照。
8 William Edward Parry: Narrative of the Attempt to reach the North Pole. イギリスの探検家で、大西洋から太平洋に抜ける航路発見を試みるが北極にて失敗。その際の航海日誌であり、1821年にロンドンで出版、ドイツでも1822年に出版されている。 Peter Raurmann: Caspar David Friedrich, Das Eismeer. Durch Tod zu neuem Leben, Fischer Taschenbuch , Frankfurt am Main, 1991.長谷川美子訳『フリードリヒ【氷塊】』、三元社、2000年。)
9 ベルシュ=ズーパンは「グライパー号」と同定している。Helmut Börsch-Supan und Karl Wilhelm Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, Prestel Verlag München, 1973, S.106.
10 前掲『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』、132頁参照。
11 Johann Christian Claussen Dahl, 1788-1857. ノルウェー近代絵画の父と目される画家。コペンハーゲン美術アカデミーに学んだ後、1818年からドレスデンに住み、1823年フリードリヒの家に入居。二人の友情は実り豊かなものであり、1824年、1826年、1829年、そして1833年と合同で展覧会を催した。
12 前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.386-387.
13 Karl August Böttiger. 枢密顧問官。ドレスデンの画壇に影響力があった。
14 前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.386-387.
15 Friedrich Wilhelm Ⅲ., 1770-1840. 在位1797-1840。1806年ナポレオンによる侵攻と敗北を経験、1819年カールスバートの決議を主催し、民族主義を主張する思想家を弾圧したことで知られる。
16 彫刻家ヨハン・ゴットリープ・シャドウによって記録された。(前掲『フリードリヒ【氷海】』、27頁。)
17 前掲『フリードリヒ【氷海】』、13-14頁から引用。P.Köster: Wächters “Lebensschiff” und Richters “berfahrt am Schreckenstein”, in: Zeitschrift für Kunstgeschichte, Bd.29, München-Berlin, 1966, S.249.
18 Pierre-Jean David d’Angers, 1788-1856. フランスの彫刻家。1834年、晩年のフリードリヒを訪問。
19 前掲『フリードリヒ【氷海】』、11-12頁から引用。Pierre-Jean David d’Angers. Les Carnets d’Angers, Paris 1958, Bd.1, S.309.
20 前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.386-387.
21 Matthew Calbraith Perry: Captain Perry’s Narrative. 日本に来航することになるアメリカ海軍のマシュー・ペリーである。しかしその成立は1852-54年と、《氷海》の成立年代と全く合致しない。(前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.386-387.
22 Wolfgang Stechow, Caspar David Friedrich und der “Griper” in: Festschrift für Herbert von Einem, München, 1965, S.241-246.
23 以上の《氷海》をめぐる解釈の変遷の概略は、『フリードリヒ【氷海】』の長谷川美子による訳者解説に拠っている。前掲『フリードリヒ【氷海】』、121-122頁。



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