2012年2月16日木曜日

【Ⅲ-(ⅱ)】ロマン主義画家としてのフリードリヒの位相

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(ⅱ)ロマン主義画家としてのフリードリヒの位相

(a)古典主義との関係

古典主義とロマン主義の関係は二項対立として簡単に割り切ることはできないが、理論的主張は対立する面が多いことは確かであり、言論・思想面での対立はメディアを賑わせた。ヴィンケルマンが『ギリシア美術模倣論』を著したの1755年であるが、古典主義の文化をゲーテやシラーは理性と熱情が同居した「疾風怒涛」という文学で大成する。ゲーテの根本思想は新古典主義に立脚した理性主義であり、ロマン主義思想、とりわけ絵画に批判的であった。ゲーテと同じく、当時画壇を支配したアカデミーも伝統的な古典主義を絵画の規律として推し進め、理性の支配した調和的な構図を称揚した。風景画で言えば、プッサンやロイスダールのように、景が前景・中景・後景と三層に別れある程度理想化された風景がよしとされた。

フリードリヒはこうした立場に激しく批判的であったことは、ラムドア論争における画家自身の反駁に顕著にみられる。ラムドア論争とは、フリードリヒの1808年の《テッチェン祭壇画》(図版5)の図像内容・構図のあり方をめぐって宮廷顧問のバジリウス・フォン・ラムドアが痛烈な批判を展開したことに端を発する。ラムドアは、同作品が風景画として理想的な景の構成からあまりに逸脱していること、そして風景のみで祭壇画を成り立たせるということは、古典主義的絵画のヒエラルキーの冒涜であると論じた。これに対してフリードリヒを擁護するロマン主義者達は反駁したという論争である。ここで重要なのは、フリードリヒの伝統から逸脱した革新性をラムドアが喝破し、そうした絵画は果たして「芸術」と呼べるか否かという問題を顕現させたことである。《テッチェン祭壇画》はロマン主義、ひいては視覚的形式よりも意味内容に重きをおく近現代以降の芸術の誕生を予見させるものであった。ラムドアに対する反論の中でフリードリヒは連綿と受け継がれてきた擬古典主義的な絵画の規律を「松葉杖」(註14)として批判し、それに頼ることはできないと主張した。フリードリヒにとって「個」を打ち出さなければ芸術的に価値は無いのである(註15)。

ゲーテとの関係も古典主義的立場に対するフリードリヒの立場を表している。ゲーテとはワイマールでの入選までは良好な関係を保ってはいたものの、やがて芸術論において対立するようになる。 ゲーテの立場からはフリードリヒの構図や画面構成は納得の行くものではなく、フリードリヒにとっても枠組み通りのステレオタイプに則った絵は反発すべきのであった。ゲーテはフリードリヒの絵を「逆さにみても同じ」と皮肉的なコメントまで残している。またゲーテはハワードの気象学に影響を受けて、フリードリヒに雲の研究を依頼するが、フリードリヒはそれを断っている。フリードリヒにとって科学的洞察は不要であり、「肉体の目を閉じ、精神の目で観る」(註16)ことを重要視したのである。
図版5
C.D. フリードリヒ《山上の十字架(テッチェン祭団画)》
1807-8年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。

(b)政治性

ロマン主義と民族主義は切っても切れない関係である。フィヒテ、シュレーゲル兄弟、ヘルダーリン、ブレンターノ、アルニム、シンケルなど多くの詩人、作家、哲学者が「ドイツ国民」に対して鼓舞した。ナポレオン戦争中はその支配からの独立と民族自決を、ウィーン体制中はドイツの政治的統一と自由主義に基づく政治を強く主張した。人々に愛国心を意識させた時代の中で、フリードリヒも政治問題に関心を持ち、しばしば熱を込めて政治談議にふけったことをシューベルトの回想記は伝えている(註17)。しかし、フリードリヒの友であり画家であるケルスティングなどは解放戦争に出征し、詩人ケルナー(註18)はこの戦争で命を落としたことを考えるとフリードリヒはけして行動的な愛国主義者とは言えない。

フリードリヒの作品には愛国主義的な作品があるし、宗教色よりも政治色が強いということは言える。とりわけ反ナポレオンの感情は強く、クライストや愛国詩人エルンスト・モーリッツ・アルント(註19)からの影響が顕著に絵画に現れているのも興味深い。クライストは9世紀にローマ軍を破ったゲルマン人ヘルマンに題をとった戯曲『ヘルマンの戦い』をかきあげ、フリードリヒのアトリエでともに朗読した可能性を指摘されている(註20)。ドレスデンの愛国芸術展に出品された《解放戦争戦没者の墓》、《森の中の猟兵》(図版18)、《フッテンの墓》にはクライストと分かち合ったであろう反フランス的な感情が表されている。ドイツ民族衣装の着衣を学者や思想家や画家に提唱したのはアルントであるということも忘れてはならない。

しかし「ドイツ国民」の民族的統一を芸術で鼓舞する立場とは一線を画す。民族自決を促すというよりは、ゲルマン人のルーツを「北方」に見出し同地への憧憬と救済を求める側面が強い。オークの木、ゴシック聖堂、巨人塚など北方的モチーフはそれだけで「政治的」に作用した。宗教的寓意に満ちた《テッチェン祭壇画》でさえ当初は政治的な目的ー北方に救済を求める目的ーのもと制作されたのである(註21)。フリードリヒの政治的主張は、《森の中の猟兵》に見れるように、あくまで婉曲的であり、情熱は確かに存在するものの奥深いところに抑圧され、画面は静謐さと孤独に満ちた寡黙な画面構成である。その点でドラクロワやジェリコーに見られるフランスのロマン主義絵画とは対照的である。
図版18
C.D. フリードリヒ《森の中の猟兵》
1813-14年、油彩、個人蔵。

(c)崇高

崇高とはイギリスにてエドマンド・バークが 1757年に『美と崇高の起源について』の中で論じて以来、イギリスからドイツに輸入されたのち大きく花開いた。バークによれば、「崇高」とは古典主義美学の規範であった秩序や均整を重んじた「美」と対立した美学概念である。「美」とは呼べない風景に対して、畏怖と歓喜の情が「崇高」の感情として知覚されるのである。

イマニュエル・カントは『判断力批判』の中で「崇高」を数学的崇高と力学的崇高に分類し、「絶対的に大きい物」と「恐怖の対象として観察される」ものと定義づけた(註22)。しかしカントの解釈に従えば、「崇高」とは理性的存在としての人間が知覚するための一種の尺度でしかなく、「感性」的概念ではなく「理性」に基づく概念なのだ。シラーは1801年の『崇高について』の中でカントの思想をさらに推し進めている。こうした考えに対してフリードリヒの絵画は微妙な位置にある。

フリードリヒの絵画には「美」という概念で論じることはできない。急峻で人を寄せ付けない山岳風景、人間の無力さを思い知らせる絶対的存在としての自然を描いたが、《海辺の僧侶》(図版6)に見られるように人間の孤独さと寄る辺なさを極限の構図で表現している。無限に広がる海に対する人間の孤独の対比によって絶対的存在を知覚するのである。しかし、死や絶望を想起するのではなく、悲劇としての浄化作用を意図しているのである。このような風景画は、カントの崇高論を継承しつつ、先述のシューベルトやシュライエルマッハーの論じた人間の無力さを意識させる自然の絶対性という理念が加わったものこそが、フリードリヒ自身の「崇高論」であるのだ。
図版6
C.D. フリードリヒ《海辺の僧侶》
1809年、油彩、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。

(d)オシアン・北方志向

オシアンはロマン主義時代に盛り上がったが、オリエンタリズムの一つの類型とは様相を異にする。スコットランドの詩人マクファーソンは1760年アイルランドの伝承から範をとった「オシアン詩篇」を英語にて出版した。ホメロスに匹敵する古代の詩として、つまりラテンの古典文化に匹敵するケルトやゲルマンの文学として評価され、ナポレオンやゲーテも愛読した。ゲーテの影響は、『若きウェルテルの悩み』の最後の場面にオシアンからの詩が引用される点で明らかである。そしてオシアンはアングルによって絵画主題にもされている。(挿図5)しかしナポレオンやアングル、さらにゲーテは、オシアンに「新たな古典古代の神話」を見出したにすぎない。「オシアン」は北方の民族にとってラテン起源以外の故郷の文化憧憬に通じるのである。
挿図5
ドミニク・アングル《オシアンの夢》
1813年、油彩、パリ、アングル美術館。
「北方への憧憬」はフリードリヒを語る上ではずずことはできない。イタリアに旅行することを頑なに拒否し、コペンハーゲンに学び、バルト海に面したリューゲン島を創作の地とし、さらには北の極地に霊感を得て《氷海》として描いた。コペンハーゲンは北欧神話やゲルマン民族の古代の記念碑などを再評価する「北方文化復興」の中心地であり、その同窓としてルンゲやダールがいる。

フリードリヒの故郷グライフスヴァルトはポンメルンという歴史上でも争奪戦の場となった土地であり、フリードリヒは自らをポンメルン人すなわちスウェーデン人と自覚していた。ナショナリズムの文脈でアルントからの影響を指摘したが、北方への憧憬や北方からの救済という面でも彼からの影響は見逃せない。アルントは1806-09年スウェーデンに暮らし、ドレスデンを含むドイツにおけるナポレオン支配に対して、当時のスウェーデン王をLichtbringer(光をもたらすもの)として讃え期待をあらわにした(註23)。フリードリヒの政治性とは、三十年戦争のグスタフ2世アドルフが旧教勢力から新教を守ったように、北方からの救世主ーすなわちスウェーデン王ーがラテン文化の象徴たるフランスを破り、救済をもたらすことを願うということに他ならない。この観点に立つと、フリードリヒの北方の風景、廃墟、巨人塚、ゴシック建築などのモチーフの多用と、反ナポレオンといった政治性との関係がはっきりする。ラムドア論争を巻き起こした1808年の《テッチェンの祭壇画》は、ラテン世界に対する北方の救世主のあらわれを予感させる主題内容であり、元来スウェーデン王に捧げられるものとして描いたものであるのだ(註24)。

政治性を抜きに、純粋に北方の景観を愛したこともまた事実である。ドイツ北部のリューゲン島を度々訪れ、極北の地グリーンランドに対してもあこがれの念を強めた。先述のようにフリードリヒは政治的救済や理想郷を北方に求め、南方への旅は拒否したが、アイスランドを訪れる企てはあったのである(註25)。北極での事件ーパリーの越冬ーはフリードリヒにも制作意欲を多分にもたらしたのは先述の通りであるが、《氷海》制作の10年後においても北極のモチーフの制作意欲がまだあることをダンジェの方も訪問の際に話している。ダンジェは以下のように記述している。
「彼は私に、地平線に一雙の船を押しつぶした氷山が見える、もうひとつ別の絵を描くつもりだと言った。前景では、水は住んで、透明で植物は識別できる。川岸に置かれた航海日誌は、船長と彼の乗組員が、人間の想像することができるかぎりの途方も無い大自然の景観を見たことを伝えている。なんという素晴らしい絵の着想であろう。」(註26)
フリードリヒは、北極というモチーフが、政治的な理由以上に、人間と自然の対立という普遍的なモチーフを見て取り、霊感を得て崇高論を体現する絵画制作に向かったのであろう。換言すれば、フリードリヒ個人の特殊な政治性と、独特の崇高論を表明するには、「北極」というモチーフは最も適するものであったのだ。


【註釈】
14 フリードリヒがヨハネス・シュルツ Johannes Schultz にあてた1809年2月8日付けの書簡の中での記載。「画家フリードリヒの絵が、何世紀にも渡って神聖とされ、認められた美術の規則に従って制作されたもの、つまり別の表現をすれば、そんな美術の松葉杖のようなものにすがり、自分自身の足で歩もうとする大胆さを持たなかったなら、真にラムドア侍従氏の安静は妨げられることは無かったでしょう。…フォン・ラムドア侍従が絶対的に遵守を要求するのは、風景画はどこまでも複数の面で表さなければならないということですが、フリードリヒにはそれは認められないのです。…美術作品はひとつのものであろうとすべきです。そしてこの意思が全体を貫き、さらにそれぞれ個々の部分が全体の刻印を帯びてなければならないのです。」 と論じた。神林恒道編『ドイツ・ロマン主義の世界 フリードリヒからヴァーグナーへ』、法律文化社、1990年、21-22頁より引用。Sigrid Hinz, C.D. Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, S.134-176.
15 《テッチェン祭壇画》の解釈は、大原まゆみ氏や和泉雅人氏の説明に詳しい。大原まゆみ『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ「テッチェン祭壇画」考』、美術史34(1)[1985.03]、 16-27頁、1985年、美術史學會。和泉雅人『フリードリヒ「テッチェンの祭壇画」』、Keio-Germanistik Jahreschirift、18-40頁。
16 フリードリヒ自身の芸術論Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler参照。神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』に収録。
17 「私はすぐにある人物と信頼関係に基づく友情を結び、その人物から外部の政治に対する嵐のような憤激をもっとも耳にすることができた。彼は軍人ではなく、また著名な外交官でもなく、高潔なポンメルン人カスパー・ダーフィト・フリードリヒであり、彼の時代には、彼をよく知るサークルのなかでもっとも尊敬されていた風景画家である。」前掲仲間裕子『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』247頁参照。Sigird Hinz, Caspar David Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, Berlin, 1968, S.228.
18 Theodore Körner, 1791-1813. 
19 Ernst Moritz Arndt, 1769-1860. 愛国詩人、歴史家。反フランス思想を強め、ナショナリズムに言及。グライフスヴァルト大学は後にエルンスト・モーリッツ・アルント大学と呼ばれる。フリードリヒとは親しい間柄で書簡のやりとりも多い。
20 Andreas Aubert, Caspar David Friedrich, ‘Gott, Friedrich, Vaterland’, Berlin, 1915, S.5. 
21 Donat de Chapeaurouge: Bemerkungen zu C.D. Friedrichs Tetschener Altar, Pantheon, München, 1981.
22 Immanuel Kant, Kritik der Utteilskraft(カント『判断力批判』篠田英雄役、岩波文庫、1964年。)
23 Ernst Moritz Arndt, Geist der Zeit, in: Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.298-299.
24 Werner Smowskiが論じて依頼、多く支持されるようになった学説。前掲 Donat de Chapeaurouge: Bemerkungen zu C.D. Friedrichs Tetschener Altarを参照。
25 イエナにいる姉妹ヘンリエッテに宛てた、1811年7月16日のカール・ルートヴィヒ・フォン・クネーベルの書簡。
前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen,  S.146.
26 前掲『フリードリヒ【氷海】』、31-32頁から引用。Pierre-Jean David d’Angers. Les Carnets d’Angers, Paris 1958, Bd.1, S.329.


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2012年2月15日水曜日

【Ⅲ-(ⅰ)】風景画家としてのフリードリヒの位相

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(ⅰ)風景画家としてのフリードリヒの位相

(a)風景画の近代化

 フリードリヒは若干の肖像画も描き、また後ろ姿の人物像も多用しているが、主たるモチーフは風景であり、本論文で扱う《氷海》も風景画のカテゴリーである。《氷海》を論じる前に、西欧の風景画が辿った歴史の流れを今一度確認したい。

ー欧州における風景の復権

 フリードリヒの生きた時代は、ヨーロッパにおける風景画の復権の時代であった。ルネサンス以降、自然観察や自然愛の感情が復活し、17世紀には風景画は一つの絵画ジャンルとして成立した。以降、風景画は社会の近代化とともに地位を高めていく。しかし18世紀や19世紀前半の時点では、ヨーロッパの主要都市のアカデミーは新古典主義の観点にたった絵画芸術を主導し、その考えに従えば、風景画は歴史画よりも下位にあるものであった。過去にオランダでは《デルフト眺望》(挿図1)を描いたフェルメール、ホッべやロイスダールといった芸術的に極めて優れた風景画家がいたが、近郊の風景を親しみをもって描いた絵はアカデミーの大家の目からすれば、到底「芸術」とはみなせないものであった(註1)。
挿図1
フェルメール《デルフト眺望》
1660年、油彩、ハーグ、マウリツハイツ美術館。
1800年、ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(註2)は、ロジェ・ド・ピール(註3)が風景画を「英雄的様式」と「田園的様式」に二分したことに習い、「歴史的風景画」と「田園的風景画」に分類し、その2つのジャンルに従属関係を付与した。しかし、こうしたアカデミー側からの風景画の注目こそが発展の基礎を築くこととなった。ヴァランシエンヌは歴史が的風景画を制作するための準備として田園的風景画の価値を認め、自然観察と制作の自発性を強調し屋外での制作を奨励した(註4)。二重革命(註5)を経て西欧における近代化が達成されると、市民社会の進展とともに田園的風景がイギリスやフランスにおいて見直され、最終的に歴史的風景画を駆逐することになるのであった。
 フランスでは、新古典主義とロマン主義がそれぞれ対立・協同しながら風景画を再認し、ジャン=バティスタ・カミーユ・コローを中心とした1830年代派を経て、フォンテーヌブローの森に惹かれ写生を重ねたテオドール・ルソーなどを擁するバルビゾン派が登場した。1855年にはレアリスム宣言を経て写実主義が登場し、絵画のモチーフがより卑近なものとなり、制作のプロセスも大きく変容した。そしてレアリスムやバルビゾン派の線上から印象派が登場した(挿図2)。その主題はまさしく風景そのものである。
挿図2
モネ《印象、日の出》
1873年、油彩、パリ、モルマッタン美術館。
イギリスでは、1782年にピクチャレスク(註6)という概念が提唱され、またワーズワースが一切の自然を歓喜をもって接したことで風景画が思想的に擁護された。自然を愛でる思想に後押しされ、ターナーやカンスタブルといった優れた風景画家が現れた。カンスタブルはピクチャレスクな田園的風景画を大成し、1824年には自身の《干し草車》(挿図3)が、ドラクロワの《キオス島の虐殺》やアングルの《ルイ13世の誓い》を制してパリのサロンにて金賞を受けた。時代が新古典主義やロマン主義よりも、ピクチャレスクな風景画を選びとったことは風景画の歴史において象徴的事件である。またケネス・クラークの『風景画論』(註7)に従えば、ターナーによってイギリスの風景画の独立と近代化が達成され、芸術の中で主要な地位を占めるに至ったとしている。ターナーの光の表現やブラシストロークは印象派に大きな影響を与えた(挿図4)。
 印象派の誕生までの、歴史画と風景画の価値序列の逆転現象こそが、風景画の近代化だと捉えることは有用であるが、しかしドイツ風景画における近代化は他国と様相を異にする。 
挿図3
ジョン・コンスタブル《干し草車》
1821年、油彩、ロンドン、ナショナルギャラリー。
挿図4
J.M.W.ターナー《吹雪》
1842年、油彩、ロンドン、ナショナルギャラリー。

ードイツの場合

 ドイツの風景画では、新古典主義とロマン主義の対立はあったものの、科学的観点を持ち込み外光を描くような動きは活発にならなかった。ドレスデンのサークル、とりわけフリードリヒやルンゲはフランスとのアナロジーとして位置づけることは難しい。 フリードリヒやルンゲは歴史画に対する風景画の優越を高らかに謳った(註8)ものの、「英雄的風景画」と「田園的風景画」のどちらも否定し、独自の風景画論を備えていたからだ。同時代のドイツでは、新古典主義のヨハン・クリスティアン・コッホが調和のとれた歴史的風景表現を大成し、またルネサンスの様式の歴史画を再興するナザレ派を生んだという流れがあるが、フリードリヒらはこうした同時代の風景画の様相を批判した。
 ケネス・クラークは『風景画論』の中で、フリードリヒは風景表現において独自の領域を確立したが、その奇異さと閉鎖的な社交性により後世へ影響をわずかにしか与えることしかなかったと論じている。しかし、フリードリヒやルンゲを英仏における風景画の「近代化」の文脈だけで考えることは不適当だ。フリードリヒやドイツ・ロマン派の画家達は、「風景画家」として後世に影響を残すことこそ無かったが、絵画における表現主義的側面や近代的批判性を後世に継承(註9)している。ドイツ・ロマン派風景画こそ、批判性や象徴主義というドイツ的な「近代」を初めて獲得していたのである。時代への反骨精神に表れる批判的立場と、モチーフに過度に図像的意味をたくそうとする象徴主義的傾向はフリードリヒとその周辺によって継承された。しかも視覚的な写実性と美的側面をある程度残しているのである。《氷海》はこの文脈に位置づけることができる代表的絵画である。ただし、フリードリヒが長い間忘れ去られていたという事実は、美術の歴史からの孤立を否定するものでは無いのもまた事実だ。

(b)風景画と画家の精神

ーシェリングとシューベルト 精神と風景

 ドイツのロマン主義者たちに自然への視点を確たるものとして持ち込んだのはシェリングであろう。彼の考えはフリードリヒの芸術観だけでなくルンゲ、カルスといったロマン主義の代表的な画家に大きな影響を与えた。1807年、シェリング『造形芸術の自然との関係について』の中で造形芸術とは「魂と自然を結びつける生き生きとした活動の絆」であるとして、自然と画家の精神を結びつけた。普遍的な調和のとれた美ではなく、ロマン主義的な画家個人の「精神」を風景画に託することを論じたのである。さらにシェリングの思想の発展がドイツ・ロマン主義の発展に不号しているという説もある。それによれば、19世紀初頭に展開した同一哲学の思想が、フリードリヒやルンゲに、精神は風景にこそ体現されるということを実践させた。19世紀の中頃は、もともと自然哲学の観点に立っていたシェリングは観念的な議論だけではなく実在論に依った思想を展開する。これが丁度ビーダーマイヤー時代のやや穏健化したロマン主義の画家達ーカルスなどがその典型であるーに符号するというのだ(註10)。
 ゴットヒルフ・ハインリヒ・シューベルトはシェリングの弟子で、ドレスデンにおいてもフリードリヒとも親交が深かった。シューベルトはシェリングの崇高論をさら推し進め、崇高な自然に対置される時の人間が、孤独や無力さを感じ取るとき、自然現象はとは絶対的存在の啓示であることを感じ取るとした。シューベルトはこの崇高論をフリードリヒなどドレスデンの画家達に直接的に影響を与えた(註11)。

ーコーゼガルテンとシュライエルマッハー 神的なものと風景

 シェリングやシューベルトは観念論哲学の系譜として、ロマン主義者に影響を与えたが、汎神論の宗教思想家も詩作や哲学によって影響を与えた。湖水地方の自然に神的な存在を見出したイギリスの詩人ワーズワースの登場が先行しているが、続いてドイツのロマン主義者に影響を与えたプロテスタントの思想家としては、グライフスヴァルトにもゆかりのある牧師のコーゼガルテン、そして汎神論者のシュライエルマッハーがその代表である。
グライフスヴァルト大学で学び、リューゲン島で魂に響く詩作を多くの残した宗教者であることから、「岸辺の説教者」と呼ばれた。コーゼガルテンは芸術は神と人間の仲介者であると論じ、リューゲン島やバルト海の島々の風景に霊験を見出したことは、そのまま直接フリードリヒの思想基盤となっている。
 シュライエルマッハーは「神は風景によって自らを体現する」とした上で、「自分の姿、形はすべて偶然であり、自分の全ては音もなくはかり知れぬものの中で消滅してゆくのだと意識しなかったら、その感情は不義の富のようなものである」(註12)と論じた。無限の自然観の前に立った人間の無力感、寄る辺なさの認識こそ、絶対者としての神への敬虔な帰依、信仰の前提条件だったのである。
 これらの直接的・間接的な思想的影響により、フリードリヒにおいて画家の精神、さらには絶対的な存在でさえも風景画として描きうるという考えが形成されたのである。風景画の思想的背景を上記のような思想家からしっかりと固められたフリードリヒは、風景描写にあっても「神聖な内なる声に耳を傾けよ」(註13)と繰り返すのである。
 ここでシェリング、シューベルト、シュライエルマッハー、コーゼガルテンという4人の名を上げたが、これらの思想家達は風景に精神や信仰心を込めることを肯定しフリードリヒやルンゲなどのロマン主義風景画家を思想的に擁護したのである。その結果、象徴的な寓意に満ちたある種特異な風景画が生まれるのたのである。


【註釈】

1 『ドイツ・ロマン派風景画論』の序で触れられている。(神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年、7頁、15行目。)
2 Pierre-Henri de Valenciennes, 1750-1819. 18世紀フランスの新古典主義を代表する画家。
3 1635-1709. 1699年フランス美術アカデミー名誉会員。1706年の『美術講義』の中で風景画を「英雄的風景画」と「田園的風景画」に二分した。
4 『新西洋美術史』Ⅴ. 近代の美術 第4章 近代風景画の発展(P. 290)参照。(『新西洋美術史』千足伸行監修、西村書店、1994年。)
5 二重革命とは、産業革命と市民革命を表す。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは『市民革命と産業革命ー二重革命の時代』1789年から1848年までの世界の変化を「二重革命」の帰結として記述した。この時期に芸術が隆盛したことも「二重革命」に原因があるとする。
6 イギリスの聖職者ウィリアム・ギルピンが『大英帝国におけるいくつかの地方のピクチャレスクな美についての考察』において「美」と「崇高」の間を埋める「ピクチャレスク」という概念を提唱したが、それは新たなカテゴリーというよりは特定の場所の景観の美しさを強調したもである。
7 Kenneth Clark; Landscape into Art, London, 1949. (『風景画論』佐々木英也訳、筑摩書房。)
8 フリードリヒは思想表明はしていないものの、絵画で示している。ルンゲは遺構『芸術と芸術家の使命について』の中で風景画の歴史画にかわる新しい可能性を論じている。 神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、202-212頁。
9 R.ローゼンブラムの以下の論稿においてフリードリヒの絵画は表現主義の画家へと受け継がれM,ロスコへと帰結すると論られている。Robert Rosenblum: Modern Painting and Northern Romantic Tradition: Friedrich to Rothko, Haper & Row, Publishers inc., New York.(神林恒道・出川哲朗共訳『近代絵画と北方ロマン主義の伝統―フリードリヒからロスコへ』、岩崎美術者、1988。)
10 神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年。
11 シェリングやシューベルトの影響は下記論文に端的に論じられている。Linda Siegel: Synaesthesia and the Paintings of Caspar David Friedrich, Art Journal, Vol.33, No.3, 1974
12 前掲 千足伸行『ロマン主義芸術 フリードリヒとその系譜』、147頁参照。
13 フリードリヒ自身の芸術論Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler参照。神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』に収録。



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