2012年2月15日水曜日

【Ⅲ-(ⅰ)】風景画家としてのフリードリヒの位相

--------------------------------------------
前へ戻る(【Ⅱ-(ⅱ)-(c)】批評と後世の評価)
目次ヘ戻る
--------------------------------------------

(ⅰ)風景画家としてのフリードリヒの位相

(a)風景画の近代化

 フリードリヒは若干の肖像画も描き、また後ろ姿の人物像も多用しているが、主たるモチーフは風景であり、本論文で扱う《氷海》も風景画のカテゴリーである。《氷海》を論じる前に、西欧の風景画が辿った歴史の流れを今一度確認したい。

ー欧州における風景の復権

 フリードリヒの生きた時代は、ヨーロッパにおける風景画の復権の時代であった。ルネサンス以降、自然観察や自然愛の感情が復活し、17世紀には風景画は一つの絵画ジャンルとして成立した。以降、風景画は社会の近代化とともに地位を高めていく。しかし18世紀や19世紀前半の時点では、ヨーロッパの主要都市のアカデミーは新古典主義の観点にたった絵画芸術を主導し、その考えに従えば、風景画は歴史画よりも下位にあるものであった。過去にオランダでは《デルフト眺望》(挿図1)を描いたフェルメール、ホッべやロイスダールといった芸術的に極めて優れた風景画家がいたが、近郊の風景を親しみをもって描いた絵はアカデミーの大家の目からすれば、到底「芸術」とはみなせないものであった(註1)。
挿図1
フェルメール《デルフト眺望》
1660年、油彩、ハーグ、マウリツハイツ美術館。
1800年、ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(註2)は、ロジェ・ド・ピール(註3)が風景画を「英雄的様式」と「田園的様式」に二分したことに習い、「歴史的風景画」と「田園的風景画」に分類し、その2つのジャンルに従属関係を付与した。しかし、こうしたアカデミー側からの風景画の注目こそが発展の基礎を築くこととなった。ヴァランシエンヌは歴史が的風景画を制作するための準備として田園的風景画の価値を認め、自然観察と制作の自発性を強調し屋外での制作を奨励した(註4)。二重革命(註5)を経て西欧における近代化が達成されると、市民社会の進展とともに田園的風景がイギリスやフランスにおいて見直され、最終的に歴史的風景画を駆逐することになるのであった。
 フランスでは、新古典主義とロマン主義がそれぞれ対立・協同しながら風景画を再認し、ジャン=バティスタ・カミーユ・コローを中心とした1830年代派を経て、フォンテーヌブローの森に惹かれ写生を重ねたテオドール・ルソーなどを擁するバルビゾン派が登場した。1855年にはレアリスム宣言を経て写実主義が登場し、絵画のモチーフがより卑近なものとなり、制作のプロセスも大きく変容した。そしてレアリスムやバルビゾン派の線上から印象派が登場した(挿図2)。その主題はまさしく風景そのものである。
挿図2
モネ《印象、日の出》
1873年、油彩、パリ、モルマッタン美術館。
イギリスでは、1782年にピクチャレスク(註6)という概念が提唱され、またワーズワースが一切の自然を歓喜をもって接したことで風景画が思想的に擁護された。自然を愛でる思想に後押しされ、ターナーやカンスタブルといった優れた風景画家が現れた。カンスタブルはピクチャレスクな田園的風景画を大成し、1824年には自身の《干し草車》(挿図3)が、ドラクロワの《キオス島の虐殺》やアングルの《ルイ13世の誓い》を制してパリのサロンにて金賞を受けた。時代が新古典主義やロマン主義よりも、ピクチャレスクな風景画を選びとったことは風景画の歴史において象徴的事件である。またケネス・クラークの『風景画論』(註7)に従えば、ターナーによってイギリスの風景画の独立と近代化が達成され、芸術の中で主要な地位を占めるに至ったとしている。ターナーの光の表現やブラシストロークは印象派に大きな影響を与えた(挿図4)。
 印象派の誕生までの、歴史画と風景画の価値序列の逆転現象こそが、風景画の近代化だと捉えることは有用であるが、しかしドイツ風景画における近代化は他国と様相を異にする。 
挿図3
ジョン・コンスタブル《干し草車》
1821年、油彩、ロンドン、ナショナルギャラリー。
挿図4
J.M.W.ターナー《吹雪》
1842年、油彩、ロンドン、ナショナルギャラリー。

ードイツの場合

 ドイツの風景画では、新古典主義とロマン主義の対立はあったものの、科学的観点を持ち込み外光を描くような動きは活発にならなかった。ドレスデンのサークル、とりわけフリードリヒやルンゲはフランスとのアナロジーとして位置づけることは難しい。 フリードリヒやルンゲは歴史画に対する風景画の優越を高らかに謳った(註8)ものの、「英雄的風景画」と「田園的風景画」のどちらも否定し、独自の風景画論を備えていたからだ。同時代のドイツでは、新古典主義のヨハン・クリスティアン・コッホが調和のとれた歴史的風景表現を大成し、またルネサンスの様式の歴史画を再興するナザレ派を生んだという流れがあるが、フリードリヒらはこうした同時代の風景画の様相を批判した。
 ケネス・クラークは『風景画論』の中で、フリードリヒは風景表現において独自の領域を確立したが、その奇異さと閉鎖的な社交性により後世へ影響をわずかにしか与えることしかなかったと論じている。しかし、フリードリヒやルンゲを英仏における風景画の「近代化」の文脈だけで考えることは不適当だ。フリードリヒやドイツ・ロマン派の画家達は、「風景画家」として後世に影響を残すことこそ無かったが、絵画における表現主義的側面や近代的批判性を後世に継承(註9)している。ドイツ・ロマン派風景画こそ、批判性や象徴主義というドイツ的な「近代」を初めて獲得していたのである。時代への反骨精神に表れる批判的立場と、モチーフに過度に図像的意味をたくそうとする象徴主義的傾向はフリードリヒとその周辺によって継承された。しかも視覚的な写実性と美的側面をある程度残しているのである。《氷海》はこの文脈に位置づけることができる代表的絵画である。ただし、フリードリヒが長い間忘れ去られていたという事実は、美術の歴史からの孤立を否定するものでは無いのもまた事実だ。

(b)風景画と画家の精神

ーシェリングとシューベルト 精神と風景

 ドイツのロマン主義者たちに自然への視点を確たるものとして持ち込んだのはシェリングであろう。彼の考えはフリードリヒの芸術観だけでなくルンゲ、カルスといったロマン主義の代表的な画家に大きな影響を与えた。1807年、シェリング『造形芸術の自然との関係について』の中で造形芸術とは「魂と自然を結びつける生き生きとした活動の絆」であるとして、自然と画家の精神を結びつけた。普遍的な調和のとれた美ではなく、ロマン主義的な画家個人の「精神」を風景画に託することを論じたのである。さらにシェリングの思想の発展がドイツ・ロマン主義の発展に不号しているという説もある。それによれば、19世紀初頭に展開した同一哲学の思想が、フリードリヒやルンゲに、精神は風景にこそ体現されるということを実践させた。19世紀の中頃は、もともと自然哲学の観点に立っていたシェリングは観念的な議論だけではなく実在論に依った思想を展開する。これが丁度ビーダーマイヤー時代のやや穏健化したロマン主義の画家達ーカルスなどがその典型であるーに符号するというのだ(註10)。
 ゴットヒルフ・ハインリヒ・シューベルトはシェリングの弟子で、ドレスデンにおいてもフリードリヒとも親交が深かった。シューベルトはシェリングの崇高論をさら推し進め、崇高な自然に対置される時の人間が、孤独や無力さを感じ取るとき、自然現象はとは絶対的存在の啓示であることを感じ取るとした。シューベルトはこの崇高論をフリードリヒなどドレスデンの画家達に直接的に影響を与えた(註11)。

ーコーゼガルテンとシュライエルマッハー 神的なものと風景

 シェリングやシューベルトは観念論哲学の系譜として、ロマン主義者に影響を与えたが、汎神論の宗教思想家も詩作や哲学によって影響を与えた。湖水地方の自然に神的な存在を見出したイギリスの詩人ワーズワースの登場が先行しているが、続いてドイツのロマン主義者に影響を与えたプロテスタントの思想家としては、グライフスヴァルトにもゆかりのある牧師のコーゼガルテン、そして汎神論者のシュライエルマッハーがその代表である。
グライフスヴァルト大学で学び、リューゲン島で魂に響く詩作を多くの残した宗教者であることから、「岸辺の説教者」と呼ばれた。コーゼガルテンは芸術は神と人間の仲介者であると論じ、リューゲン島やバルト海の島々の風景に霊験を見出したことは、そのまま直接フリードリヒの思想基盤となっている。
 シュライエルマッハーは「神は風景によって自らを体現する」とした上で、「自分の姿、形はすべて偶然であり、自分の全ては音もなくはかり知れぬものの中で消滅してゆくのだと意識しなかったら、その感情は不義の富のようなものである」(註12)と論じた。無限の自然観の前に立った人間の無力感、寄る辺なさの認識こそ、絶対者としての神への敬虔な帰依、信仰の前提条件だったのである。
 これらの直接的・間接的な思想的影響により、フリードリヒにおいて画家の精神、さらには絶対的な存在でさえも風景画として描きうるという考えが形成されたのである。風景画の思想的背景を上記のような思想家からしっかりと固められたフリードリヒは、風景描写にあっても「神聖な内なる声に耳を傾けよ」(註13)と繰り返すのである。
 ここでシェリング、シューベルト、シュライエルマッハー、コーゼガルテンという4人の名を上げたが、これらの思想家達は風景に精神や信仰心を込めることを肯定しフリードリヒやルンゲなどのロマン主義風景画家を思想的に擁護したのである。その結果、象徴的な寓意に満ちたある種特異な風景画が生まれるのたのである。


【註釈】

1 『ドイツ・ロマン派風景画論』の序で触れられている。(神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年、7頁、15行目。)
2 Pierre-Henri de Valenciennes, 1750-1819. 18世紀フランスの新古典主義を代表する画家。
3 1635-1709. 1699年フランス美術アカデミー名誉会員。1706年の『美術講義』の中で風景画を「英雄的風景画」と「田園的風景画」に二分した。
4 『新西洋美術史』Ⅴ. 近代の美術 第4章 近代風景画の発展(P. 290)参照。(『新西洋美術史』千足伸行監修、西村書店、1994年。)
5 二重革命とは、産業革命と市民革命を表す。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは『市民革命と産業革命ー二重革命の時代』1789年から1848年までの世界の変化を「二重革命」の帰結として記述した。この時期に芸術が隆盛したことも「二重革命」に原因があるとする。
6 イギリスの聖職者ウィリアム・ギルピンが『大英帝国におけるいくつかの地方のピクチャレスクな美についての考察』において「美」と「崇高」の間を埋める「ピクチャレスク」という概念を提唱したが、それは新たなカテゴリーというよりは特定の場所の景観の美しさを強調したもである。
7 Kenneth Clark; Landscape into Art, London, 1949. (『風景画論』佐々木英也訳、筑摩書房。)
8 フリードリヒは思想表明はしていないものの、絵画で示している。ルンゲは遺構『芸術と芸術家の使命について』の中で風景画の歴史画にかわる新しい可能性を論じている。 神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、202-212頁。
9 R.ローゼンブラムの以下の論稿においてフリードリヒの絵画は表現主義の画家へと受け継がれM,ロスコへと帰結すると論られている。Robert Rosenblum: Modern Painting and Northern Romantic Tradition: Friedrich to Rothko, Haper & Row, Publishers inc., New York.(神林恒道・出川哲朗共訳『近代絵画と北方ロマン主義の伝統―フリードリヒからロスコへ』、岩崎美術者、1988。)
10 神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年。
11 シェリングやシューベルトの影響は下記論文に端的に論じられている。Linda Siegel: Synaesthesia and the Paintings of Caspar David Friedrich, Art Journal, Vol.33, No.3, 1974
12 前掲 千足伸行『ロマン主義芸術 フリードリヒとその系譜』、147頁参照。
13 フリードリヒ自身の芸術論Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler参照。神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』に収録。



--------------------------------------------
目次ヘ戻る
次へ進む(【Ⅲ-(ⅱ)】ロマン主義としてのフリードリヒの位相)
--------------------------------------------

0 件のコメント:

コメントを投稿