2012年2月16日木曜日

【Ⅲ-(ⅱ)】ロマン主義画家としてのフリードリヒの位相

--------------------------------------------
前へ戻る(【Ⅲ-(ⅰ)】風景画家としてのフリードリヒの位相)
目次ヘ戻る
--------------------------------------------


(ⅱ)ロマン主義画家としてのフリードリヒの位相

(a)古典主義との関係

古典主義とロマン主義の関係は二項対立として簡単に割り切ることはできないが、理論的主張は対立する面が多いことは確かであり、言論・思想面での対立はメディアを賑わせた。ヴィンケルマンが『ギリシア美術模倣論』を著したの1755年であるが、古典主義の文化をゲーテやシラーは理性と熱情が同居した「疾風怒涛」という文学で大成する。ゲーテの根本思想は新古典主義に立脚した理性主義であり、ロマン主義思想、とりわけ絵画に批判的であった。ゲーテと同じく、当時画壇を支配したアカデミーも伝統的な古典主義を絵画の規律として推し進め、理性の支配した調和的な構図を称揚した。風景画で言えば、プッサンやロイスダールのように、景が前景・中景・後景と三層に別れある程度理想化された風景がよしとされた。

フリードリヒはこうした立場に激しく批判的であったことは、ラムドア論争における画家自身の反駁に顕著にみられる。ラムドア論争とは、フリードリヒの1808年の《テッチェン祭壇画》(図版5)の図像内容・構図のあり方をめぐって宮廷顧問のバジリウス・フォン・ラムドアが痛烈な批判を展開したことに端を発する。ラムドアは、同作品が風景画として理想的な景の構成からあまりに逸脱していること、そして風景のみで祭壇画を成り立たせるということは、古典主義的絵画のヒエラルキーの冒涜であると論じた。これに対してフリードリヒを擁護するロマン主義者達は反駁したという論争である。ここで重要なのは、フリードリヒの伝統から逸脱した革新性をラムドアが喝破し、そうした絵画は果たして「芸術」と呼べるか否かという問題を顕現させたことである。《テッチェン祭壇画》はロマン主義、ひいては視覚的形式よりも意味内容に重きをおく近現代以降の芸術の誕生を予見させるものであった。ラムドアに対する反論の中でフリードリヒは連綿と受け継がれてきた擬古典主義的な絵画の規律を「松葉杖」(註14)として批判し、それに頼ることはできないと主張した。フリードリヒにとって「個」を打ち出さなければ芸術的に価値は無いのである(註15)。

ゲーテとの関係も古典主義的立場に対するフリードリヒの立場を表している。ゲーテとはワイマールでの入選までは良好な関係を保ってはいたものの、やがて芸術論において対立するようになる。 ゲーテの立場からはフリードリヒの構図や画面構成は納得の行くものではなく、フリードリヒにとっても枠組み通りのステレオタイプに則った絵は反発すべきのであった。ゲーテはフリードリヒの絵を「逆さにみても同じ」と皮肉的なコメントまで残している。またゲーテはハワードの気象学に影響を受けて、フリードリヒに雲の研究を依頼するが、フリードリヒはそれを断っている。フリードリヒにとって科学的洞察は不要であり、「肉体の目を閉じ、精神の目で観る」(註16)ことを重要視したのである。
図版5
C.D. フリードリヒ《山上の十字架(テッチェン祭団画)》
1807-8年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。

(b)政治性

ロマン主義と民族主義は切っても切れない関係である。フィヒテ、シュレーゲル兄弟、ヘルダーリン、ブレンターノ、アルニム、シンケルなど多くの詩人、作家、哲学者が「ドイツ国民」に対して鼓舞した。ナポレオン戦争中はその支配からの独立と民族自決を、ウィーン体制中はドイツの政治的統一と自由主義に基づく政治を強く主張した。人々に愛国心を意識させた時代の中で、フリードリヒも政治問題に関心を持ち、しばしば熱を込めて政治談議にふけったことをシューベルトの回想記は伝えている(註17)。しかし、フリードリヒの友であり画家であるケルスティングなどは解放戦争に出征し、詩人ケルナー(註18)はこの戦争で命を落としたことを考えるとフリードリヒはけして行動的な愛国主義者とは言えない。

フリードリヒの作品には愛国主義的な作品があるし、宗教色よりも政治色が強いということは言える。とりわけ反ナポレオンの感情は強く、クライストや愛国詩人エルンスト・モーリッツ・アルント(註19)からの影響が顕著に絵画に現れているのも興味深い。クライストは9世紀にローマ軍を破ったゲルマン人ヘルマンに題をとった戯曲『ヘルマンの戦い』をかきあげ、フリードリヒのアトリエでともに朗読した可能性を指摘されている(註20)。ドレスデンの愛国芸術展に出品された《解放戦争戦没者の墓》、《森の中の猟兵》(図版18)、《フッテンの墓》にはクライストと分かち合ったであろう反フランス的な感情が表されている。ドイツ民族衣装の着衣を学者や思想家や画家に提唱したのはアルントであるということも忘れてはならない。

しかし「ドイツ国民」の民族的統一を芸術で鼓舞する立場とは一線を画す。民族自決を促すというよりは、ゲルマン人のルーツを「北方」に見出し同地への憧憬と救済を求める側面が強い。オークの木、ゴシック聖堂、巨人塚など北方的モチーフはそれだけで「政治的」に作用した。宗教的寓意に満ちた《テッチェン祭壇画》でさえ当初は政治的な目的ー北方に救済を求める目的ーのもと制作されたのである(註21)。フリードリヒの政治的主張は、《森の中の猟兵》に見れるように、あくまで婉曲的であり、情熱は確かに存在するものの奥深いところに抑圧され、画面は静謐さと孤独に満ちた寡黙な画面構成である。その点でドラクロワやジェリコーに見られるフランスのロマン主義絵画とは対照的である。
図版18
C.D. フリードリヒ《森の中の猟兵》
1813-14年、油彩、個人蔵。

(c)崇高

崇高とはイギリスにてエドマンド・バークが 1757年に『美と崇高の起源について』の中で論じて以来、イギリスからドイツに輸入されたのち大きく花開いた。バークによれば、「崇高」とは古典主義美学の規範であった秩序や均整を重んじた「美」と対立した美学概念である。「美」とは呼べない風景に対して、畏怖と歓喜の情が「崇高」の感情として知覚されるのである。

イマニュエル・カントは『判断力批判』の中で「崇高」を数学的崇高と力学的崇高に分類し、「絶対的に大きい物」と「恐怖の対象として観察される」ものと定義づけた(註22)。しかしカントの解釈に従えば、「崇高」とは理性的存在としての人間が知覚するための一種の尺度でしかなく、「感性」的概念ではなく「理性」に基づく概念なのだ。シラーは1801年の『崇高について』の中でカントの思想をさらに推し進めている。こうした考えに対してフリードリヒの絵画は微妙な位置にある。

フリードリヒの絵画には「美」という概念で論じることはできない。急峻で人を寄せ付けない山岳風景、人間の無力さを思い知らせる絶対的存在としての自然を描いたが、《海辺の僧侶》(図版6)に見られるように人間の孤独さと寄る辺なさを極限の構図で表現している。無限に広がる海に対する人間の孤独の対比によって絶対的存在を知覚するのである。しかし、死や絶望を想起するのではなく、悲劇としての浄化作用を意図しているのである。このような風景画は、カントの崇高論を継承しつつ、先述のシューベルトやシュライエルマッハーの論じた人間の無力さを意識させる自然の絶対性という理念が加わったものこそが、フリードリヒ自身の「崇高論」であるのだ。
図版6
C.D. フリードリヒ《海辺の僧侶》
1809年、油彩、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。

(d)オシアン・北方志向

オシアンはロマン主義時代に盛り上がったが、オリエンタリズムの一つの類型とは様相を異にする。スコットランドの詩人マクファーソンは1760年アイルランドの伝承から範をとった「オシアン詩篇」を英語にて出版した。ホメロスに匹敵する古代の詩として、つまりラテンの古典文化に匹敵するケルトやゲルマンの文学として評価され、ナポレオンやゲーテも愛読した。ゲーテの影響は、『若きウェルテルの悩み』の最後の場面にオシアンからの詩が引用される点で明らかである。そしてオシアンはアングルによって絵画主題にもされている。(挿図5)しかしナポレオンやアングル、さらにゲーテは、オシアンに「新たな古典古代の神話」を見出したにすぎない。「オシアン」は北方の民族にとってラテン起源以外の故郷の文化憧憬に通じるのである。
挿図5
ドミニク・アングル《オシアンの夢》
1813年、油彩、パリ、アングル美術館。
「北方への憧憬」はフリードリヒを語る上ではずずことはできない。イタリアに旅行することを頑なに拒否し、コペンハーゲンに学び、バルト海に面したリューゲン島を創作の地とし、さらには北の極地に霊感を得て《氷海》として描いた。コペンハーゲンは北欧神話やゲルマン民族の古代の記念碑などを再評価する「北方文化復興」の中心地であり、その同窓としてルンゲやダールがいる。

フリードリヒの故郷グライフスヴァルトはポンメルンという歴史上でも争奪戦の場となった土地であり、フリードリヒは自らをポンメルン人すなわちスウェーデン人と自覚していた。ナショナリズムの文脈でアルントからの影響を指摘したが、北方への憧憬や北方からの救済という面でも彼からの影響は見逃せない。アルントは1806-09年スウェーデンに暮らし、ドレスデンを含むドイツにおけるナポレオン支配に対して、当時のスウェーデン王をLichtbringer(光をもたらすもの)として讃え期待をあらわにした(註23)。フリードリヒの政治性とは、三十年戦争のグスタフ2世アドルフが旧教勢力から新教を守ったように、北方からの救世主ーすなわちスウェーデン王ーがラテン文化の象徴たるフランスを破り、救済をもたらすことを願うということに他ならない。この観点に立つと、フリードリヒの北方の風景、廃墟、巨人塚、ゴシック建築などのモチーフの多用と、反ナポレオンといった政治性との関係がはっきりする。ラムドア論争を巻き起こした1808年の《テッチェンの祭壇画》は、ラテン世界に対する北方の救世主のあらわれを予感させる主題内容であり、元来スウェーデン王に捧げられるものとして描いたものであるのだ(註24)。

政治性を抜きに、純粋に北方の景観を愛したこともまた事実である。ドイツ北部のリューゲン島を度々訪れ、極北の地グリーンランドに対してもあこがれの念を強めた。先述のようにフリードリヒは政治的救済や理想郷を北方に求め、南方への旅は拒否したが、アイスランドを訪れる企てはあったのである(註25)。北極での事件ーパリーの越冬ーはフリードリヒにも制作意欲を多分にもたらしたのは先述の通りであるが、《氷海》制作の10年後においても北極のモチーフの制作意欲がまだあることをダンジェの方も訪問の際に話している。ダンジェは以下のように記述している。
「彼は私に、地平線に一雙の船を押しつぶした氷山が見える、もうひとつ別の絵を描くつもりだと言った。前景では、水は住んで、透明で植物は識別できる。川岸に置かれた航海日誌は、船長と彼の乗組員が、人間の想像することができるかぎりの途方も無い大自然の景観を見たことを伝えている。なんという素晴らしい絵の着想であろう。」(註26)
フリードリヒは、北極というモチーフが、政治的な理由以上に、人間と自然の対立という普遍的なモチーフを見て取り、霊感を得て崇高論を体現する絵画制作に向かったのであろう。換言すれば、フリードリヒ個人の特殊な政治性と、独特の崇高論を表明するには、「北極」というモチーフは最も適するものであったのだ。


【註釈】
14 フリードリヒがヨハネス・シュルツ Johannes Schultz にあてた1809年2月8日付けの書簡の中での記載。「画家フリードリヒの絵が、何世紀にも渡って神聖とされ、認められた美術の規則に従って制作されたもの、つまり別の表現をすれば、そんな美術の松葉杖のようなものにすがり、自分自身の足で歩もうとする大胆さを持たなかったなら、真にラムドア侍従氏の安静は妨げられることは無かったでしょう。…フォン・ラムドア侍従が絶対的に遵守を要求するのは、風景画はどこまでも複数の面で表さなければならないということですが、フリードリヒにはそれは認められないのです。…美術作品はひとつのものであろうとすべきです。そしてこの意思が全体を貫き、さらにそれぞれ個々の部分が全体の刻印を帯びてなければならないのです。」 と論じた。神林恒道編『ドイツ・ロマン主義の世界 フリードリヒからヴァーグナーへ』、法律文化社、1990年、21-22頁より引用。Sigrid Hinz, C.D. Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, S.134-176.
15 《テッチェン祭壇画》の解釈は、大原まゆみ氏や和泉雅人氏の説明に詳しい。大原まゆみ『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ「テッチェン祭壇画」考』、美術史34(1)[1985.03]、 16-27頁、1985年、美術史學會。和泉雅人『フリードリヒ「テッチェンの祭壇画」』、Keio-Germanistik Jahreschirift、18-40頁。
16 フリードリヒ自身の芸術論Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler参照。神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』に収録。
17 「私はすぐにある人物と信頼関係に基づく友情を結び、その人物から外部の政治に対する嵐のような憤激をもっとも耳にすることができた。彼は軍人ではなく、また著名な外交官でもなく、高潔なポンメルン人カスパー・ダーフィト・フリードリヒであり、彼の時代には、彼をよく知るサークルのなかでもっとも尊敬されていた風景画家である。」前掲仲間裕子『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』247頁参照。Sigird Hinz, Caspar David Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, Berlin, 1968, S.228.
18 Theodore Körner, 1791-1813. 
19 Ernst Moritz Arndt, 1769-1860. 愛国詩人、歴史家。反フランス思想を強め、ナショナリズムに言及。グライフスヴァルト大学は後にエルンスト・モーリッツ・アルント大学と呼ばれる。フリードリヒとは親しい間柄で書簡のやりとりも多い。
20 Andreas Aubert, Caspar David Friedrich, ‘Gott, Friedrich, Vaterland’, Berlin, 1915, S.5. 
21 Donat de Chapeaurouge: Bemerkungen zu C.D. Friedrichs Tetschener Altar, Pantheon, München, 1981.
22 Immanuel Kant, Kritik der Utteilskraft(カント『判断力批判』篠田英雄役、岩波文庫、1964年。)
23 Ernst Moritz Arndt, Geist der Zeit, in: Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, S.298-299.
24 Werner Smowskiが論じて依頼、多く支持されるようになった学説。前掲 Donat de Chapeaurouge: Bemerkungen zu C.D. Friedrichs Tetschener Altarを参照。
25 イエナにいる姉妹ヘンリエッテに宛てた、1811年7月16日のカール・ルートヴィヒ・フォン・クネーベルの書簡。
前掲Börsch-Supan/Jähnig, Casper David Friedrich: Gemälde, Druckgraphik und bildmäßige Zeichnungen,  S.146.
26 前掲『フリードリヒ【氷海】』、31-32頁から引用。Pierre-Jean David d’Angers. Les Carnets d’Angers, Paris 1958, Bd.1, S.329.


--------------------------------------------
次へ進む(【Ⅳ-(ⅰ)】「船」の持つ意味)
目次ヘ戻る
--------------------------------------------

0 件のコメント:

コメントを投稿