2011年5月20日金曜日

写楽展行ってきた。

写楽展に行ってまいりました。

東京国立博物館 特別展「写楽」
公式HP
http://sharaku2011.jp/
会期:2011年5月1日〜6月12日
三代目大谷鬼次の江戸兵衛
寛政6年(1794) 大判 錦絵

「これほどまでに多くの写楽の作品が一堂に会する企画展は、今まで無かったし、おそらくこれからも無いであろう」と言われるほど前評判は高く、僕自身も期待に胸をふくらませながら足を運びました。されど、最高潮に上がったハードルをも超える程、当企画展のクオリティは高かったのです。

展示は大きく半分に別れ、前半では写楽の代表作を展示しつつ、写楽に影響を与えたとされる浮世絵(勝川春草など)や歌舞伎役者絵も多くあり、それらから写楽の作品のルーツを検証します。それによると実は大首絵は写楽が元祖ではなかったそうな。また同時代の絵師(喜多川歌麿など)との比較もおこなわれます。一緒に歌麿の美人画も見れたのは嬉しい誤算!
後半では、写楽の作品群をほとんど網羅し、時系列に沿って並べます。同時に歌舞伎の演目の説明も丁寧なので、作品をより多角的に鑑賞できます。
その他「版」の違いによる色彩や保存状態の比較や、雲母摺り(きらずり)に関しての説明など充実のコンテンツ。大まかな展示の概要はこのような感じでした。

あとは個人的な感想というかメモというか、主観によった文章です。

写楽はなんとも不思議な絵師です。七不思議まではいかないまでも3不思議くらい挙げていこうと思います。


不思議その1『誰・・・?』
写楽の正体は、いわば「複数人説」が無数にあるくらい、謎に包まれており、未だ確実な言説はありません。流派も系譜もよくわからない。さらに驚くべきことは彼の活動歴の短さ!制作活動に従事した期間は一年にも満たず、江戸の絵画史に突然現れ突然姿を消すのです。
いったい彼は何者なのか…。(今回の企画展はそこに主眼は置かれず、あくまで主旨は『作品』を存分に味わうこと、だそう。もちろん多くの示唆はありますが。)

不思議その2『一年で画風変えすぎ。』
その短い活動の中で、スタイルが急激に変化していくのです。このことから、「写楽複数人説」も信憑性も帯びてくるのでしょう。
初期は、人物を胸部から頭部を中心に大胆にフォーカスしたあまりにもインパクトのある画面構成の「大首絵」から制作が始まり、制作歴を重ねるにつれ人物への極端なフォーカスは徐々にズームアウトしていき、最後には人物像全体を風景の中に配する「正常」な画面構成に落ち着きます。これは成熟というのでしょうか…。線の描き方も初期と後期ではかなり違います。(初期は力強く大胆、後期は技巧的で繊細。)  
最初はこうで…

こうなって…

あれ…写楽ってこんなんだっけ…まぁいっか
いや…え、うそでしょ…
(上の絵について)
一枚目→ 《初代大谷徳次の奴袖助》寛政6年、大判、錦絵
「あーん?こら、刀ぬいちゃうぞてめー」みたいなのほほんとした顔が好きです。特徴のみを抽出し単純化するあたりが我々の思うところの「写楽」って感じです。

二枚目→ 《三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の新町のけいせい梅川》寛政6年、大判、錦絵
確かに、顔の描き方は写楽ですが…。着物の衣紋や体の動きなんて躍動的すぎて写楽っぽくない。

三枚目→ 《三代目市川八百蔵の曾我の十郎祐成》寛政7年、大判、錦絵
確かに、顔だけは写楽の描く市川八百蔵そのものです。だけど、この線とか着物の模様とか背景とか本当に写楽が表現したのか、素人の僕ですら疑ってしまいます…。

四枚目→ 《紅葉狩り》寛政6年、間判、錦絵
もはや「ご冗談を」の域。まぁ突っ込みたくなるのはぼくだけじゃないはず。違うでしょ!同時代の人は申し訳程度に書いてある「写楽画」の讃を訝しげに眺めたことでしょう…。

この変化を、「身を貶める課程」だとか、「人気を無くす課程」なんてこきおろす方も居られます。確かに、最初期の大首絵が写楽の存在を決定づけるに足る作風であり、引いては江戸絵画の象徴と言っても過言では無いくらいぼくたちの「江戸」感を醸成しているものでもあります。逆に後期の作品は、大衆受けを狙って奇抜さを欠いた平凡な作品と思うかもしれません。

不思議その3『歌舞伎役者・・・だけ?』
写楽は歌麿のような美人画は描き(け)ません。写楽は北斎や広重などのような風景画・風俗画は描き(け)ません。もっぱら歌舞伎の役者絵を制作したのです。力士の絵もあったりしますが、歌舞伎のモチーフが前作品の内ほとんどを占めます。
もちろん蔦屋重三郎といった版元の存在も大きいと思いますが、僕には、写楽は本当に歌舞伎を愛していたように思います。なぜならば、役者の顔をあそこまで特徴を即妙にとらえ、誇張しつつ表現するのは、熱の無い観察では不可能なように思われるからです。きっと彼は歌舞伎小屋に毎日足を運び、役者と毎日顔をあわせていたのでしょう。(注:根拠なし)

ぼくの意識したところはこんな感じでした。それにしても楽しかったなー。
東博の展示は毎回かなりのクオリティを発揮しとても楽しめる内容です。今回も期待の上を行く素晴らしい展示でした。
「二人で行きましょ。」「お、おう」

次もか〜なりおもしろそうですよ。

2011年5月19日木曜日

レンブラント展にいってきた。

国立西洋美術館「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」
公式ホームページ

会期:2011年3月12日(土)〜6月12日(日)


レンブラント展に行ってきました。

光と、
闇と、
レンブラント。

というキャッチが付いていますが、このキャッチが嫌だ。笑

まぁそれは些末なことで文句垂れても仕方ないのですが。笑

僕の卒業研究は19世紀初頭のドイツロマン主義ですが、その研究のためにも避けては通れない画家です。というかバロック期以降の油彩画を考える上でももはや避けては通れないでしょう。

今回のテーマは「光と闇」だそうです。レンブラントが光と闇の表現を油彩や版画においていかに熱心に取り組んだかということを、丁寧に観察して行くというのが本展覧会の主旨です。

彼の有名な話では、肖像画への照明の当て方ですよね。光源はきれいに斜め45度に置かれ、それがまさに絶妙な位置なのです。この照明の当て方はレンブラント・ライトとして写真や映画のライティングにも応用されるほどなのです。
それよりも特筆すべきなのは「キアロスクーロ」の追求の仕方なのです。キアロスクーロとは明暗法、つまり劇的な陰影を付けることで、場面表現を豊かにする方法のことを言います。このキアロスクーロの追求は版画にこそ端的に見受けられます。しかも実に多様なアプローチを駆使しています。

  • 「線」で明暗表現
版画は基本的に線描になりますが、そのため「ぬりつぶす」「ぼかし」といった行為ができないのです。しかし、レンブラントは多様な線で光と闇の表現を追求するのです。彼の生涯の関心事であったと推測も容易です。
  • 「紙」で明暗表現
レンブラントの活躍した時代では、ボロ布の繊維からつくる安い紙が主流でした。公文書などには羊皮紙などの動物の革をなめしてつくった紙が使われました。
レンブラントはこうした紙に加えて、和紙をも使ったのです。紙によってインクの吸収率は違うので、同じ型板でもかない印象を異にする作品ができたのです。レンブラントは意識的に実験的に様々な紙で版画を制作していたのでです。とりわけ和紙は吸収率が良いため、線描の輪郭がぼやけ、独特のぼかし的な表現を可能にします。まさに紙によるスフマート。北方的な硬質な線が和紙によってぼかされるときのなんとも柔らかい光と闇の混淆は実に味があります。


初版とそれ以降の版でマイナーチェンジを重ねていたことも本展覧会で紹介しています。《3本の十字架》《エッケ・ホモ》といった作品は、版(ステート)によってかなり改変が重ねられていることを実際に並べて確認できます。
(日本の版画ではよくありますがね。)

あとは銅版の型があって、おっ!ってなりました。版画というと複製物なわけで、その原本というか唯一無二の「オリジナル」なので、印象に残りました。実際レアなものが来ていると思いました。


《羊飼いへのお告げ》

1634年、エッチング・エングレーヴィング・ドライポイント、262 x 218 mm
アムステルダム、レンブラントハイス/ⓒThe Rembrandt House Museum, Amsterdam


《病人たちを癒すキリスト(百グルデン版画)》

1648年頃、エッチング・ドライポイント・エングレーヴィング、278 x 388 mm
国立西洋美術館

美術展の感想
レンブラントの宗教主題は表現が緻密で正確なのですが、しつこくなく比較的すっきりまとまっているので好きです。肖像画はいわずもがな素晴らしい完成度です。ただ、レンブラントで嫌いなのは女性の体の描き方です。ルーベンス程ではないけど肉々しすぎます。笑
そんなことを再確認できたのですが、しかしながら、日曜日のお昼に行き、混んでたことも相まって、作品と対峙してもそこまで感動は激しくはなかったです。それと版画の鑑賞は思いの外骨が折れるので気合が必要だなと思いました笑