2011年12月27日火曜日

【Ⅱ-(ⅱ)-(c)】受容と死後の評価


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(c)受容と死後の評価

ー同時代の評価

 彼は特異な存在であったことは歴史からも明らかである。ドレスデンにてフリードリヒは、知識人、大学教員、芸術家などから構成されるロマン主義者の集団の中にいた。彼らは学識のある階級であり、イエナ、ベルリン、ハイデルベルク、ハンブルク、グライフスヴァルトなどにいる友人と頻繁にやりとりしていた。彼らはロマン主義を人的・精神的に支えてはいたが、その思想を様々な階級の人々に届けることは無く、地理的・階級的に大きな広がりを見せることは無かった。そのため、フリードリヒの「成功」というのは少人数の閉鎖的グループから支持され、賞賛されただけであり、時期としても、《山上の十字架》の完成させた1808年から、数点の絵を後のロシア皇帝であるニコライ公が買い上げた1820年までの10年程度しか続かなかった
  1824年ドレスデンの名誉教授に任命されたことが最後の社会的名誉であるが、それと同時に風景画の指導権を得られなかったことは公的意見からの拒絶に他ならなかった。1825年以降、彼の作品は陰鬱で奇妙なものとしか評価されず、本質的な理解はされなかった。しかし、作品はある程度売れており同時代の重要な作家、詩人、貴人が彼を訪ねているという事実はあった。1830年以降は彼も孤独を自覚し、精神的にも肉体的にも健康を失い、経済的にも苦しみながら1840年幸せとは言えない最期を迎えることになった。

ー死後の評価

 死後彼の作品は社会的に忘れ去られた。旧知の友カルスが死亡記事を書いたときには、彼の作品は遠くの過去のものに属するような印象を与えた。死後の19世紀におけるドイツ人画家の列伝にも全く彼の存在は触れられなかった。
 彼の作品は、アンドレアス・オーバート(註43)によってダールの研究中にたまたま再発見され、再評価を受けた。1906年ベルリンにて32点の作品がフリードリヒによるものと同定された。印象派の人気の中で、薄暮や日の出・日の入りといったモチーフが見直され、象徴主義の画家達の登場により、フリードリヒの絵画言語の理解の土台を敷いた。その時から、フリードリヒの絵画は皮相的にでも理解され人気を博した。ナチズムの時代にはドイツナショナリズムの精神のシンボルとして掲げれた。
 研究史としては戦前までは、大きな成果は無かったが、1959年ロンドン・テートギャラリーにおける「The Romantic Movement」の中で大きく紹介されたことにより、一気に研究は活発化した。1960年代にはベルシュ=ズーパン、イエーニヒ、ヒンツらの、1970年代にはイエンゼン、ガイスマイエル、アイマ―、メルケルなどの優れた研究が登場した。

【註釈】

43 Andreas Aubert, 1851-1913. ノルウェーの美術史家。ダールの作品や生涯を調べていくうちに「フリードリヒ」という画家を度々目にし興味を持ち、ドレスデンで再発見を果たす。千足伸行氏の記述を参照。(千足伸行『ロマン主義芸術 フリードリヒとその系譜』、美術出版社、1978年、52頁。)


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