2011年12月31日土曜日

【Ⅰ-(ⅱ)-(b)】本論文の概要

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(b)本論文の概要

この論文の目的は、船というモチーフの意味内容を明らかにし、《氷海》の解釈が決してネガティブなものではなく、カタルシスの後に希望がくることまでを意味していることを過去の言説に触れながら論証していくことである。
 第一章は本論の前提となる序論であり、研究の目的と意図を示す。
 第二章では、対象となる作家と作品の、研究の上で不可欠な基本情報を示す。《氷海》の来歴と制作された背景、解釈の歴史を論じ、さらに作家の半生のプロフィールと様式形成のプロセスを概観することとで本論の基礎をつくることが主な内容だ。
 第三章では、風景画の歴史におけるフリードリヒの位相を明らかにし、さらに彼の思想形成の主たる要素(それがすなわちドイツ・ロマン主義の諸相)を具体的に列挙し、フリードリヒが合目的的に氷海のモチーフを構成するに至った背景を分析する。
 第四章では、古今の「船」の作品を例証し、また同時代の作家が描いた船との比較を通して船というモチーフの歴史を概観する。フリードリヒの他の作例を検証しながら、氷海における船の表す意味内容を絞り込む。
 第五章では、結論を述べる。船が「国家」を意味していることことを示し、その上で《氷海》の真意を結論づけたい。


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【Ⅰ-(ⅱ)-(a)】対象のディスクリプション

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(ⅱ)本論文の対象と概要

(a)対象のディスクリプション

本論文の対象作品はC.D.フリードリヒによって1823-24年のドレスデンにて制作された《氷海》である。
C,D.フリードリヒ《氷海》
画面の中央、あまりにも強烈に「破壊」を提示している。フリードリヒの風景画の中には息を飲むほど美しい作品もあるが、この作品は違う。一瞥しただけでは、その絵の内容に快い情動が芽生えるはずもなく、快い「美」や「やすらぎ」を与える作品とは全く正反対のベクトルを向く。少なくとも第一印象は観者を困惑させる。
たくみな遠近表現によって、あたかもこの極北の風景が眼前に広がっているようである。観者の立つ位置は茶色の帯で示す前景よりもこちら側である。立ち位置が陸地であることは前景の氷や雪が茶色を帯び、土が付着していることからうかがえる。陸地はどうやら舗装されていたらしい。また前景の中央には2つの氷片が矢印の形をつくり、ある方向を指している(挿図1)。
その矢印が指すのは、画面右側に位置する無残に氷の下に沈みかけている帆船である(挿図2)。わずかであるがマストも確認することができる一隻の船が圧倒的な自然の力の下に屈服し沈みかけている。船は人々に旅や出発を連想させるものであるが、それがここでは再起の見込めない挫折を経験している。 氷塊のいたるところに檜の棒が巻き込まれていることで、船が憐れな残骸となってしまったことをより一層明確に表している。
前景からある程度の距離、しかも確実に歩いて渡ることなど不可能であり、物理的・精神的に人を寄せ付けない距離をとって、荒々しい氷の塊が中央にそびえ立つ。ぶあつい氷の板が何層にも折り重なって高々と積み上げられていき終に氷の山となる。 氷の板の厚さは船と比すると優に1mを越えることが伺える。鋭く角が立ち、力強さと不安定さがアンビバレンスに同居しながら荒々しく屹立する氷の塊。その一方、この氷塊は幾何学的かつ抽象的な形であり、その単純無機質さはモニュメンタルな様相も備えている。 北方世界の過酷な自然環境がもたらす脅威を表し、そこに人為は到底叶わない。氷の先は鋭く、右斜め上を指し、天上を指向している。
しかし、破壊のより後方にある景に目をやると、実に神秘的で幻想的な広がりが確認できる。色彩も前景の暗く汚れた色と正反対で、ほのかに桃色が混じったおぼろげで繊細な淡青で透明性も表現されている。画面左奥に見える氷山(挿図3)は中央のそれと確実に異質で、美しい輝きを放ち暴力的な雰囲気は皆無だ。空からはわずかに雲間から青空が漏れでており、この風景が破壊と絶望だけにとどまっていないことが暗示されている。
この絵は三層構造をなしている。観者である我々が立つ土気色の前景、圧倒的な破壊と挫折が表された中景、そして、破壊の奥無限の広がりを持つ神秘的な後景が広がっている。この三層構造がそれぞれ象徴的な意味合いを持っているのだ。その意味合いを明らかにしつつ、船の持つ意味を論じていきたい。
挿図1 《氷海》部分
挿図2 《氷海》部分

挿図3 《氷海》部分
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【Ⅰ-(ⅰ)】研究の目的・動機

(ⅰ)研究の動機・目的

 私は本論文を執筆するにあたり、初心に立ち返り揺るぎない地盤を認めてから筆を進めていきたい。なぜこの作家と作品を選んだかのプロセスを書き記すと共に、そもそものところ自分はなぜ美学美術史という学問分野を選んだのかということを明らかにしたい。執筆のモチベーションの所在を明らかにすることで、自分の学業を締めくくる本論文の意味もより大きくなるであろうと感じ、学問領域の選択の動機と執筆の動機を本論文の冒頭として序に変えたい。

ー美学美術史という学問専攻

 私がそもそも美術作品の歴史を研究するという学問を選んだのは、本当に美術が好きということよりも他の理由があったように感じる。両親が美大出身であり、世界有数の美術作品の集まる都市東京に過ごし、幼少の頃より様々な古今東西の美術作品に触れる機会が十分にあった。確かに今まで心打たれるような芸術作品を数多く目にすることがあったし、贔屓の画家もいることは確かで、一般水準よりは絵画芸術を好きで美術展に頻繁に足を運ぶ。しかし、特定の画家を研究したいという熱意に駆られてこの学問を専攻した訳ではない。
 そもそも歴史学と哲学の中間にある美学美術史という学問に不利な点は確かにある。第一に経済的に富を生み出さないのは言うまでもなく、「人間が豊かな生を享受する」ためには少し遠回りのアプローチをする。第二に、学問それ自体に新規性は無く方法論は新興の学問に比して古典的である。第三に美術作品の享受のあり方は人の感性によって多様であり、真の芸術作品の享受にとって美術史の知識は弊害にもなり得るという決定的批判もあろう。
 しかしながら、この学問には、「一見意味の無いと思えることに意味を見出す」という重大な使命があると私は感じる。私が惹かれたのはその点である。重ねるが、私は固有の画家を研究するためにこの学問を選んだのではない。ある対象に対して、主観に依拠していようとも一定の価値を見出して、それを評価した上で、研究を行い、論理の体系として、万人が共有できる解釈や価値を創出する。この課程は、 もともとも何かについて議論を交わしたり論評することは好きであるという性格も相まって、 自分の気質に合致し、非常におもしろく感じる。
 私は、一見無秩序なものに自分が視座を与え、それを第三者に届け、楽しませたり知的好奇心を芽生えさせる能力を養いたいと今でも考える。そう志向した時に、美学美術史という学問は、「価値を見出す」という目的性においては最も純粋な学問であると感じる。

ーフリードリヒという画家

 少なくとも私にとっては、フリードリヒを研究し、論じることは、他の作家に対するよりも格段に面白いのである。これが動機であると言ってしまえばあまりに稚拙であろうか。  フリードリヒの生きた時代はドイツ文化の爛熟の時代であり、また政治的激動の時代である。そしてフリードリヒにおいても知的好奇心を満たしうるパーソナリティと彼の作品にまつわる数奇な歴史があり、そこには手に汗を握るようなドラマでさえあると私は考える。誤認された絵画解釈、神秘性と政治性の交錯、同時代の偉人との交友関係など、一つ一つのエピソードがまさに感情を鼓舞するよう刺激に満ちている。客観的に分析すべきモノや歴史自体に対して主観的感情を混ぜてしまうことは危険かもしれない。しかし、彼の芸術の歴史を「発見」し、「研究」し、「伝える」プロセスはそれだけ魅力に満ちたものであった。
 フリードリヒは風景に象徴的意味を込めて主題を明確に示した。時には風景画の主題に「神」という最も極端な意味内容を託したために物議を醸すこともあった。彼の絵は、画家独自の絵画言語によって構成され、観者に「読ませる」ことを要求する。歴史上、複雑な図像学が発達し、「読ませる」絵画が多く誕生したのはマニエリスム(註1)の頃であろうが、フリードリヒの絵の持つ言語性は、マニエリスムの作品に比するものがある。そしてその象徴性は近代の橋渡しになるのだ。私は象徴主義やウィーン世紀末の絵画などの「読ませる」絵画が好きである。
 そして、彼の描く絵が美しいことが研究対象となる决め手となった。フリードリヒの絵は視覚的にも魅了させる力がある。造形的なフォーム、冷たく暗いが時として穏やかで暖かな印象を与えるその色彩感覚。私の琴線に触れる作品を残した画家であることに間違いはない。

ー《氷海》、そして「船」

 フリードリヒの主たるモチーフには様々なものがあるが、ことに「船」に関しては多くの習作、油彩が残っている。されど一口に船と言っても、帆船、手漕ぎ舟、ヨット、出港する船、寄港する船と様々である。古来より船には図像的意味があったが、フリードリヒの描く「船」の持つ意味内容は作品によってその性格を異にする。その多義性に解明するやりがいを感じた。また船を擁した作品イメージはどれも印象深い。中でも、《広大な囲い地》や《居人生の諸段階》における画面の美しさと船に含蓄された意味内容は私の心を捉えた作品である。ここをもって「船」を一つの軸として研究することに決めた。
 しかし最終的に選んだのは、《氷海》における「船」だ。この作品は人によっては辟易させる画面であろうし、研究の軸である「船」は難破して氷山の下に潰されている。中央にそびえるのは圧倒的な「破壊」である。一見するとこの絵画は、死、絶望、挫折などといったネガティブな意味として解釈されてしまうが(長い研究史の中ではネガティブな解釈が支配的だったが)、フリードリヒの込めた意図はそれだけに留まらない。破壊の後のカタルシスとその後に来る希望を少なからず象徴しているである。従ってここに描かれた船はただの破壊の前に無力に果てる人間の象徴では決してないのだ(註2)。このことをより明確に、かつ船というモチーフの切り口の中で示すことが本論文の主たる目的である。
 「裏菩薩」という考えがある。これは私の好きな教えの一つであるが、元来菩薩は救いを人々に与えるが、逆に人に別れや死など辛い悲劇をもたらすことで、その後の人間を成長させ、強くし、より豊かな生を与える、という教えである。この考えは、《氷海》の主題に通じるところがある。私も短い人生で何度か挫折を経験したが、この絵画を図版などで眺めることで、こうした前向きな考え方と教訓を与えてくれるようにも思われる。いわばこの絵画の意味内容も私に感動を与えるものなのである。  極端に簡潔に要約すれば、自分という人間が好むところを追求した結果、この学問分野とテーマにたどり着いた。私は情熱を持ってこのテーマに取り組んだことをここに記したい。

C.D.フリードリヒ《氷海》
1823-24年、油彩、ハンブルク絵画館。
【註釈】

1 千足伸行氏によってフリードリヒを始めとするドイツロマン主義とマニエリスムの象徴性の上での類似性を論じている。さらに氏は、現代芸術にもその象徴性は受け継がれ、歴史の中で周期的に発言しているとする。(千足伸行『ロマン主義芸術 フリードリヒとその系譜』、美術出版社、1978年、7「マニエリスムーロマン主義ー現代」。
2 主だった主張はラウトマン(Perter Rautman)によってなされた。学説は分かれるところであるが、私は本論文でこの立場に立つ。


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2011年12月27日火曜日

【Ⅱ-(ⅱ)-(c)】受容と死後の評価


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(c)受容と死後の評価

ー同時代の評価

 彼は特異な存在であったことは歴史からも明らかである。ドレスデンにてフリードリヒは、知識人、大学教員、芸術家などから構成されるロマン主義者の集団の中にいた。彼らは学識のある階級であり、イエナ、ベルリン、ハイデルベルク、ハンブルク、グライフスヴァルトなどにいる友人と頻繁にやりとりしていた。彼らはロマン主義を人的・精神的に支えてはいたが、その思想を様々な階級の人々に届けることは無く、地理的・階級的に大きな広がりを見せることは無かった。そのため、フリードリヒの「成功」というのは少人数の閉鎖的グループから支持され、賞賛されただけであり、時期としても、《山上の十字架》の完成させた1808年から、数点の絵を後のロシア皇帝であるニコライ公が買い上げた1820年までの10年程度しか続かなかった
  1824年ドレスデンの名誉教授に任命されたことが最後の社会的名誉であるが、それと同時に風景画の指導権を得られなかったことは公的意見からの拒絶に他ならなかった。1825年以降、彼の作品は陰鬱で奇妙なものとしか評価されず、本質的な理解はされなかった。しかし、作品はある程度売れており同時代の重要な作家、詩人、貴人が彼を訪ねているという事実はあった。1830年以降は彼も孤独を自覚し、精神的にも肉体的にも健康を失い、経済的にも苦しみながら1840年幸せとは言えない最期を迎えることになった。

ー死後の評価

 死後彼の作品は社会的に忘れ去られた。旧知の友カルスが死亡記事を書いたときには、彼の作品は遠くの過去のものに属するような印象を与えた。死後の19世紀におけるドイツ人画家の列伝にも全く彼の存在は触れられなかった。
 彼の作品は、アンドレアス・オーバート(註43)によってダールの研究中にたまたま再発見され、再評価を受けた。1906年ベルリンにて32点の作品がフリードリヒによるものと同定された。印象派の人気の中で、薄暮や日の出・日の入りといったモチーフが見直され、象徴主義の画家達の登場により、フリードリヒの絵画言語の理解の土台を敷いた。その時から、フリードリヒの絵画は皮相的にでも理解され人気を博した。ナチズムの時代にはドイツナショナリズムの精神のシンボルとして掲げれた。
 研究史としては戦前までは、大きな成果は無かったが、1959年ロンドン・テートギャラリーにおける「The Romantic Movement」の中で大きく紹介されたことにより、一気に研究は活発化した。1960年代にはベルシュ=ズーパン、イエーニヒ、ヒンツらの、1970年代にはイエンゼン、ガイスマイエル、アイマ―、メルケルなどの優れた研究が登場した。

【註釈】

43 Andreas Aubert, 1851-1913. ノルウェーの美術史家。ダールの作品や生涯を調べていくうちに「フリードリヒ」という画家を度々目にし興味を持ち、ドレスデンで再発見を果たす。千足伸行氏の記述を参照。(千足伸行『ロマン主義芸術 フリードリヒとその系譜』、美術出版社、1978年、52頁。)


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【Ⅱ-(ⅱ)-(b)】様式と技法

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(b)様式と技法

ーセピア画と油彩

 フリードリヒは風景こそが人間の信心や感情を鏡のようにうつすものであるという信条を、1803年の《一日の時間》の連作(セピア、1803年、所在不明。)の制作の課程で発展させた。それと同時にセピア画の技法を完成させた。
 フリードリヒの油彩による風景画の細部は常に、宗教的、哲学の教条的な意味をなし、象徴的である。しかしながら、彼の作品が賞賛されたのは、内容というよりはむしろ幾何学的な画面構成力やパースペクティブの多様さといったテクニカルな側面であった。絵画の抽象的意味が濃くなるにつれ、二対または複数の絵で相補的に同じ概念を表す傾向を強めた。ドレスデンの工房からの眺め描いたセピア画《アトリエの右側の窓からの眺め》(図版17)と《アトリエの左側の窓からの眺め》の対は、その最も端的な例である。《氷海》と《ヴァッツマン》も二対の関係であったことは先に触れたとおりである。

ー自然模倣の相克

 グライフスヴァルトでのクウィストルプからの指導、コペンハーゲン美術アカデミーでの修学、ドレスデンでの活動を通して一貫していたのは、風景に対するミメーシスを保持するということであった。風景画の本質的要素であるミメーシス、つまりあるものをあるものの如く描く、という絵画規律からフリードリヒは逸脱することは無かった。しかし、アカデミーの提唱する風景画の規律を否定し(註40)、同時代のドレスデンの風景画の様相を批判し(註41)、さらには宗教的寓意性に満ちた風景画作品を数多く残したことはフリードリヒのみである(註42)。フリードリヒは人間の感情の発露としての自然を描くために、いくらかの編集・コラージュ・デフォルメを用いて神秘的かつ寓意的な風景画を制作した。

ー二層構成

 前景と後景の象徴的な対比はフリードリヒの1806年のリューゲン島の滞在以降の数多くの風景画に見受けられる。 1807年に油彩画を始める前に、象徴的絵画言語と、画面構成の特徴としての景の二項対立―制限された前景と無限の後景、内界と外界、現世と来世の対置―は既に顕現していた。 中景は全く排除され、伝統的な風景画のパースペクティブ・三層構成を否定している。 先にあげた二対の《アトリエの窓からの眺め》にこめられた象徴的意味内容は室内外で2つの世界の隔たりを表している。 暗い室内は同時代の俗世を現し、神聖な天上の王国を現す明るい窓の外側と意図的に対比させられている。 二層構成の作品は、左右対称のモチーフの配置がなされている場合が多い。《テッチェン祭壇画》や《リューゲン島の白亜の断崖》もその端的な例である。

ー象徴的モチーフ

 フリードリヒの絵画は象徴的な意味合いの強い絵画言語で構成されている。樫、樅などの植物、船、ゴシック聖堂、墓地、遺跡といった人工物、ふくろうやカラスなどの動物もその範疇に入るであろう。ドイツ装束は先に述べた通りであるが、ゴシック建築もナポレオン時代に対する画家の心情の表れであり、1810年から登場し始め、その例は《教会の見える冬景色》(挿図18)など枚挙に暇がない。ゴシック建築はゲルマン人における理想郷を象徴し、戦争の無い平和時においても主たるモチーフとして残っていった。
 しかし彼の絵から象徴的な主題が薄れた時もあった。1824年の病床からの復帰の時、象徴的意味合いを持たない37点の水彩による風景画を制作した。それは後に版画として出版されるはずであったが、実現されなかった。
図版17
C.D.フリードリヒ《アトリエの右側の窓からの眺め》
1805-06年、鉛筆にセピア、ヴィエンナ。
図版18

C.D.フリードリヒ《教会の見える冬景色》
1805-06年、鉛筆にセピア、ヴィエンナ。

【註釈】

40 ラムドア論争(後述)に端的に表れる。
41 『現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主とするコレクションを見ての見解』(註17に同じ)の中で端的に表れる。
42 和泉雅人による論稿『テッチェンの祭団画』に端的な記述がある。「フリードリヒの革命性は、風景画の本質的様相であるミメーシス性を保持しつつも伝統的風景画における自然模倣の方向性を拒否したこと、カールスが先に述べたような前景・中景・後景からなる画面構成のシンタクスの否定となる新たなる可能性の創造、そして風景画による宗教的・寓意的表現を創出した点である。」(和泉雅人『フリードリヒ「テッチェンの祭壇画」』、Keio-Germanistik Jahreschirift、18-40頁、 慶應義塾大学、2003年。)


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2011年12月26日月曜日

【Ⅱ-(ⅱ)-(a)】略歴


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(ⅱ)Caspar David Friedrich, 1774~1840.

フリードリヒの作品の中でも、心的綱領となる作品について論を進める上で、作家の半生を追い、様式を概観することは不可欠である。ここでは、イエンゼンの記述(註24)に範をとりながら、作家の生涯のハイライトと作品の様式・諸特徴、そして最後に、歴史的評価について言及していきたい。

(a)略歴

1774年7月5日、ドイツ北東部のバルト海に面した小都市グライフスヴァルトにて生まれ、1840年5月7日ドレスデンにて没っした。フィリップ・オットー・ルンゲ(註25)とともにドイツロマン主義の先駆でありである。

ー様式形成

石鹸・蝋燭業を営むアドルフ・ゴットリープ・フリードリヒの6男として生まれた。家庭教師によって一般教養を学んだ後、1790年から1794年までグライフスヴァルト大学のヨハン・ゴットフリート・クウィストルプ(註26)に師事しエッチングや素描を学んだ。ついで1794年から1798年まで、コペンハーゲンの美術アカデミーで絵画技法を学んだ。フリードリヒはこの頃、規律のとれた絵画マナーを発展させたが、作例として《東屋のある風景》(図版2)がある。アカデミーで彼に影響を与えた重要な人物として、アビルドガード(註27)、ユエル(註28)、ロレンツェン(註29)、ヴィーデヴェルト(註30)がいた。その中でもユエルとアビルドガードからの影響は晩年のフリードリヒの絵画においても色濃く現れている(註31)。
1798年、コペンハーゲンを後にし、以降の人生のほとんどをドレスデンで送った。ドレスデンの伝統に従い、綿密な自然の模写を重ねた。エッチングによる最初の風景画の作品群を制作した際には、小道、橋、川、木々、遠景の丘、街並みといった象徴的なモチーフは既に用いられていた。光と影の対照的なコントラストも顕現していた。1801年から1802年は、グライフスヴァルト滞在し、リューゲン島にも足を運んだ。その間に、アドリアン・ツィング(註32)に比肩するセピア画による風景画の大作を制作した。彼のセピアのスケッチや肖像画は賞賛を受け、ゲーテの知遇を得て、1805年ヴァイマルの第7回美術展に出品したところ、《初夏の巡礼》(図版3)が受賞した。1801年制作の木版画《女と枯木に張った蜘蛛の巣》(図版4)は、人物の心的状況の表れとしての風景が既に描かれている。一日の時間や、四季、人生の諸段階を描いた風景画連作がフリードリヒの1800~1810年代の主たるテーマとなった。人物像は風景、または木々といった風景の要素に頻繁に対置されたが、これはルンゲからの影響である。二人の画家は1801から1802年、グライフスヴァルトで出会い、ルンゲも1803年から1805年まではドレスデンに住んだ。フリードリヒは1803年から1804年においてルンゲがそうしていたように、宗教から霊感を得た詩を創作している。

図版2
C.D. フリードリヒ《東屋のある風景》
1797年、ペン・墨・水彩、ハンブルク、ハンブルク絵画館。

図版3
C.D. フリードリヒ《初夏の巡礼》
1805年、セピア、ヴァイマル、Kustsammlungen zu Weimar。

図版4
C.D. フリードリヒ《女と枯木に張った蜘蛛の巣》
1803-04年、木版、ハンブルク、ハンブルク絵画館。



ー積極評価の時代 風景画の新しい可能性を示唆

1807年には、フリードリヒは油彩による制作を開始した。ボヘミアのテッチェン城の礼拝堂を飾る祭壇画の制作をトゥーン・ホーエンシュタイン伯爵夫人(註33)から依頼されたことも油彩の導入と無関係ではない(註34)。完成した油彩《山上の十字架》(図版5)は風景画は宗教画たりえるという画家自身の考えを具現化したものだった。風景により敬虔な宗教画を構成するという考えー神は自然によって自らを表現し人間は信心の行為として雄大な風景を眺めるという考えーは、ルター派プロテスタンティズムから発生し、シュライエルマッハー(註35)やコーゼガルテン(註36)によって支持された。フリードリヒは1785年から1792年の間に、シュライエルマッハーとコーゼガルテンとも知遇を得ている。フリードリヒは《海辺の僧侶》(図版6)においてさらにこの考えを表現した。この2つの絵画は厳しい批評を受けつつも、ロマン主義者から熱烈に支持された。
《海辺の僧侶》とその対になる《樫の森の修道院》(図版7)は、1810年のベルリンにおけるアカデミーに出品され、《樫の森の修道院》は15歳のプロイセン皇太子(註37)の購入するところとなった。この絵画にはフリードリヒの主たるモチーフである中世の教会の廃墟が描かれている。樫の木々は異教徒を象徴し、棺をひく修道士たちの列は墓地を横切り、福音の世界を象徴する祭壇の薄明かりへと向かっていく。明るい空は、死や墓地を象徴する夕暮れ、もしくは、希望や復活を表す朝方を示している。この観点から見るフリードリヒの風景画は崇高のモチーフが支配的である。《虹のかかる山岳風景》(図版8)は寂しく不穏な嵐が顕著であり、《リーゼンゲビルゲの朝》(図版9)の霧がかった山頂は、当時のフリードリヒの山景に対する精神性の高さを表している。この油彩はワイマールで1812年に展示され、プロイセン皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の購入するところとなった。
ドレスデンがフランス軍に占領中の際、フリードリヒはエルブザントシュタインゲビルゲに滞在し、1813年3月のドレスデンの解放を祝う愛国的な展示に参加した。愛国的な趣向の表現は、《帆船にて》(図版10)や《月を眺める二人の男》(図版11)の伝統的なドイツ人の衣服の人物の登場において見て取ることができる。こうした装束はナポレオンへの敵意の一部として理解できる。古きドイツ民族の衣装は1815年頃から着られ始め、1818年には学生、文筆家、芸術家の間で広く普及した。しかし1819年のカールスバートの決議によりそうした思想家は扇動者とみなされ、この装束も禁止された。しかしフリードリヒの絵画においては以降も頻出した。

図版5
フリードリヒ《山上の十字架(テッチェン祭団画)》
1807-8年、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。


図版6
C.D. フリードリヒ《海辺の僧侶》
1809年、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。


図版7
C.D. フリードリヒ《樫の森の修道院》
1809年、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。

図版8
C.D. フリードリヒ《虹のかかる山岳風景》
1813年、油彩、エッセン、フォルクワング美術館。
図版9
C.D. フリードリヒ《リーゼンゲビルケの朝》
1810-11年、油彩、ベルリン、ナショナルギャラリー。

図版10
C.D. フリードリヒ《帆船の上にて》
1813年、サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館。

図版11
C.D. フリードリヒ《月を眺める二人の男》
1819-20年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。

ー晩年、消極評価の時代へ

1818年から1820年の間に、フリードリヒは左右対称の原則を非対称へと変容させていった。1818年の《雲海の上の旅人》(図版12)や1820年の《窓辺の女》(図版13)などに見られるように人物を強調するようにもなった。しかし、その人物のどれもが個を特定させない後ろ姿であることは興味深い。また、この時よりポジティブな主題よりも皮肉的な主題が優勢になり始めた。《リューゲン島の白亜の断崖》(図版14)では、前景の三人の人物はとても不安定な足元に立っている。1823年よりダールと実りある友好関係を築き、お互いの画業に少なからず影響を与えあった。フリードリヒの絵画はより色彩を増し、さらに死と再生、生命の儚さといった主題を風景表現の中に託していったのもダールの影響による。既に二人ともドレスデン美術アカデミーの教授となっていたが、1824年に風景画の指導ポストに空席ができたにも関わらず、フリードリヒはその要職に就けなかった。これは当時のビーダーマイヤー(註38)的な社会的風潮によるフリードリヒの評価の限界を示していた。同年、本論の対象である、《氷海》(図版1)が制作される。
フリードリヒに対する社会の無関心は拍車がかかり、フリードリヒは経済的にも身体的にも苦難を迎える。1830年の手記『現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主とするコレクションを見ての見解』(註39)の中で、フリードリヒはナザレ派の理想主義、保守的なビーダーマイヤー的傾向、アカデミーに与する批評家の要求など、当時の画壇・画家のあり方を総じて批判した。同時に自分自身が美術の世相から孤立していることも自覚していた。しかしながら、1832年の《広大な囲い地》(図版15)や1835年の《人生の諸段階》(図版16)は自身の画業の中でも最も色彩が美しく、画家の心情を力強く美的に謳った作品を残しているのは興味深い。1835年、脳卒中に倒れほとんど半身不随となる。そのころは技法はセピア画に回帰する。晩年の作品は彼の肉体的な衰微が見て取れるものの、死と復活を連想させるようなモチーフを用いた力強い作品は多い。1838年ドレスデン美術アカデミーにて最後の展覧会を経験し、1840年その人生の幕を閉じる。



図版12
C.D. フリードリヒ《雲海の上の旅人》
1818年、ハンブルク、ハンブルク絵画館。
図版13
C.D. フリードリヒ《窓辺の女》
1822年、ベルリン、ナショナルギャラリー。
図版14
C.D. フリードリヒ《リューゲン島の白亜の断崖》
1818年、ヴィンタトゥール、オスカーラインハルトコレクション。
図版15
C.D. フリードリヒ《広大な囲い地》
1832年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。
図版16
C.D. フリードリヒ《人生の諸段階》
1835年、油彩、ライプチヒ、造形美術館。
【註釈】

24 Jens Christian Jensen による記述。The Dictionary of Art, ed.Jane Turner, vol , p.778-784.
25 Phillip Otto Runge, 1777-1810. ドイツロマン派の立役者の一人。フリードリヒと同様、宗教性・寓意性に満ちた風景画を数多く残すが、フリードリヒに比すと、子供など人物も主たるモチーフとしていた。
26 Johann Gottfried Quistorp, 1755-1835. グライフスヴァルト大学にて教鞭をとっていた。
27 Nicoraj Abraham Abildgaard, 1743-1809. デンマークの新古典主義の画家。スカンディナヴィア人やドイツ人の神話や歴史に対するフリードリヒの情熱を鼓舞した。
28 Jens Juel, 1745-1802. デンマークの画家。肖像画に定評があるが、彼の風景画は明快な構成力において特筆すべきである。
29 Christian August Lorentzen, 1749-1828. デンマークの新古典主義の画家。
30 Johannes Wiedewelt, 1759-1802. デンマークの新古典主義の彫刻家。
31 註15に同じ。とりわけ《東屋のある風景》(1794年頃、ペン・墨・水彩、ハンブルク絵画館)の情緒的気分を喚起する空間としてのイギリス式庭園に端的に現れている。
32 Adrian Zingg, 1734-1816. ドレスデンにおけるセピア画の大成者。
33 Graf Franz Anton von Thun-Hohenstein, 1786-1873. 絵画制作を依頼する1807年においては結婚前であり、1808年にBrühl伯爵令嬢と結婚。
34 註15に同じ。
35 Daniel Friedrich Schleiermacher, 1768-1834. プロテスタンティズムを発展。「神は風景によって自らを体現する」とした。
36 Ludwig Gotthard Kosegarten, 1758-1818. グライフスヴァルトの詩人、ルター派牧師。汎神論者。大学で学んだ。自然は人間と神の仲介者であるとした。Gottfried Ludwig Kosegartenの父にあたる。
37  後のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795-1861)。在位1840-1861。1848年には、パリ二月革命に伴うベルリンにおける市民と軍の衝突を経験し、プロイセン欽定憲法を制定したことで知られる。
38 ヴィクトル・フォン・シェッフェル Joseph Victor von Scheffel, 1826-1886. の出版した読み物の中に登場する「ビーダーマン」と「ブンメルマイヤー」という二人の典型的な小市民の名から取られたものであるが、それがやがて彼らに代表される当時の市民階級の生活様式の基調となった簡素な家具様式、あるいは室内用式の様式に転用された。
39 Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler. 1830年頃のものと推測される備忘録。実際に催されたか、架空かはわからない展覧会につい自身の見解を述べている。鑑賞したコレクションは一つではなく複数の可能性。日本語訳あり。(神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年。)

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次に進む(【Ⅱ-(ⅱ)-(b)】様式と技法)
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2011年12月25日日曜日

卒論マラソンday1【目次】

フリードリヒ『氷海』 ー船というモチーフの解釈をめぐる問題ー


C.D.フリードリヒ《氷海》
1824年、ハンブルク、ハンブルク絵画館。


Ⅰ. 序              

(ⅰ)研究の動機・目的
(ⅱ)本論文の対象と概要
a.対象のディスクリプション
b.本論文の概要

Ⅱ. 対象となる作品と作家     

(ⅰ)Das Eismeer, 1824
a.成立の背景
b.来歴
c.受容・解釈の歴史
(ⅱ)Caspar David Friedrich, 1770~1844.
a.略歴
b.様式と技法
c.批評と後世の評価

Ⅲ. ロマン主義の諸相とフリードリヒ 

(ⅰ)風景画家としてのフリードリヒの位相
a.風景画の近代化
b.風景画と画家の精神
(ⅱ)ロマン主義画家としてのフリードリヒの位相
a.古典主義との関係
b.政治性
c.崇高
d.オシアン・北方志向

Ⅳ. モチーフとしての「船」     

(ⅰ)「船」の持つ意味
a.宗教的な聖域(教会)としての船
b.死後の世界への渡し船
c.人間の叡智
d.信頼・希望
e.船と人間の生涯との類比
f.国家・体制
(ⅱ)《氷海》における船

Ⅴ. 結語              

(ⅰ)景の解釈
(ⅱ)絵画に込めた画家の真意

参考資料              

本論文における参考文献
フリードリヒと関連する人物
年表

卒論マラソンします。【宣誓】


宣誓!
今日ぼくはここに卒論マラソンを完走することを誓います!

自分は本当に筆が重いです…。
どうしたら卒論を日々納期意識を持って取り組めるかを考えたところ、このブログに一日一日の進捗を原文そのままアップロードしてくという、我ながら恐ろしい考えに至りました。

という訳で、ぼくの卒論マラソンすなわち一人卒論晒しあげが今日より始まります。
もし途中で走るのをやめていたり誤った走り方をしていたり、もしくは些細な間違い(誤字脱字など)があればご指摘下さい。

卒論テーマは、
「フリードリヒ《氷海》の解釈」です。
ドイツロマン主義の風景画家カスパー・ダーフィト・フリードリヒは1824年の油彩作品《氷海》を制作したのですが、その絵に込めた画家の真意は何か!を解明するというものです。

論文といっても、世紀の大発見なんぞできる訳もなく、先行研究をまとめつつ、自分の見解を付していくというものです。どうぞおヒマであれば見守ってください。進捗は右バーの【卒論マラソン】タグにて管理しています。

完走スルゾ(;゚д゚)
てか本気でヤヴァい!!

2011年11月10日木曜日

永松あき子展



▼個展「これまでの永松あき子展」
昨日母親の個展に行ってまいりました。 
TwitterやFacebookでも宣伝したのですが、
ブログでも紹介しておきます。
まぁ、なんせ絵が売れれば、自分ちの家計が潤うわけですからね!
単純なキャッシュフローですね!

高輪台の閑静な住宅街。
そのうちの、マンションの一室に会場である「ガレリアg佐藤」はあります。

今回は大小様々な作品が展示されています。
古い作品(10年前くらいの制作)から最新の作品まで展示されていますが、
技法や様式、モチーフは一貫性があります。
過去記事も参照) 

技法は油彩です。
油絵というとゴッホのような力強い厚塗りの印象を持つ方は多いかもしれませんが、
かなりの薄塗りの顔料を何度も何度も塗り重ねています。
それだけ手間と時間もかかっています。

▼入場はお気軽に!
入場は無料で、なんと、コーヒーor紅茶とケーキも無料で頂けます。
学生もバンザイ!
時間によっては、おばちゃん達がわいわいお茶してる場合もあります。
現在、個展「永松あき子展」とグループ展「Scuola展」が同時開催されており、
2会場で永松あき子の作品を見ることが出来ます。
(2会場に足を運べば、鉛筆画・ペン画などをタダでくれるみたいです。
詳しくはブログを参照してください。)


□これまでの永松あき子展
会期=2011年11月7日(月)~11月12日(土)

会期中無休
初日13:00~19:00
平日11:00~19:00
土曜11:00~18:00

会場=パークハウス白金台 502
東京都港区白金台2-9-15-502

大きな地図で見る
Tel : 03-3440-7711

□Scuola展

会期=2011年11月7日(月)~11月13日(土)
会期中無休
初日13:00~19:00
平日11:00~19:00
土曜11:00~18:00
日曜11:00~15:00

会場=サロン・ド・ジー
東京都中央区銀座6-4-6 646 9階

大きな地図で見る
Tel : 03-3571-5837


2011年11月9日水曜日

瀬戸内の芸術にふれてきた。(前編)

photo by Hironori Oka
先月の末にバイト先の先輩岡氏と瀬戸内まで小旅行してきました。
道中どこも楽しかったのですが、足を運んだ島々についてご紹介したいと思います。
上の写真は豊島のレストラン「イル・ヴェント」の内観とぼくです。 (ドヤ顔してるつもり) 
▼瀬戸内と福武總一郎

いつからか、瀬戸内の島々は日本屈指のアートスポットです。
特に直島、豊島、犬島の三島は人生の一度は足を運んで欲しい場所です。
「瀬戸内旅行」と聞くとかなり渋いような印象をうけますが、
アート、建築の前衛がそこにはあるのです。 
【参照】
ベネッセアートサイト直島 
日本には数々の優れた現代アートのコレクターがいますが、
福武總一郎氏は間違いなく、日本で最も優れたコレクションを蒐集した
自分物の一人でしょう。
彼は1989年に直島にベネッセハウスを建てて以来、現代アートに関する様々な
施設を瀬戸内の島々に建設していきました。そしてそこに自身のコレクションを
寄贈していきました。
その理念は批判を受けながらもけしてぶれる事無く貫かれ、瀬戸内のイメージとして
現代アートを定着させ、国内のみならず多くの外国人観光客をも同地に
引き寄せたのです。
それまでは、景勝地と雄大な自然に恵まれてはいたものの、観光地として
ぱっとしていなかったこの島々も、今では洗練されたアートと大自然が一体と
なっている日本屈指の文化エリアと呼べるのではないでしょうか。
このブログでは美術館・美術品の感想を綴っていきますが、
ほとんどの場所は写真厳禁であったため、当の作品は文章のみの描写となりますが、
想像力・妄想力をフルに駆使して読んで見てください。

▼直島
妹島氏による設計の港の案内所。

草間彌生のかぼちゃと岡氏。
ベネッセのプロジェクトの中心地でもある直島は
岡山県の宇野港からフェリーで20分足らずの、
瀬戸内海の美しい青に切り立った断崖が印象的な島です。
直島の東部に位置する宮浦港に着くと、すぐにSANAAによる港の庁舎と
草間彌生のかぼちゃに出迎えられ、早くも非日常の風景が現れます。

地中美術館
地中に埋まってる美術館なので地中美術館。(まんま)
設計は安藤忠雄
地下1〜3階に3階層にわかれ、平面プランは正三角形の吹き抜けの中庭を中心に、
周りを展示室が取り囲むという、奇抜なものとなっています。
コンクリート、鉄、ガラス、木で構成しつつデザインを極限まで切りつめる
安藤忠雄の基本姿勢が踏襲されており、一見SF的な地底基地を思い連想
しそうになりますが、
自然光の取り入れ方がうまく、館内にうまく光が差し込んでいますし、
中庭に見られる緑の植物が不思議と調和しているのです。
しかもコンクリートの人工的な無機質さと光と緑の自然さが矛盾していません。
また、地下のため階層の変化が感じれないと思いきや、上下の階層変化を
意識することができる不思議な建築です。

【地中美術館に所蔵される代表的な作家】

  • クロード・モネ
クロード・モネ(Claude Monet, 1840~1929)は、
言わずと知れた19~20世紀に活躍した印象派の巨匠ですが、
まさか瀬戸内の島にこんな優れた作品が…という感じで驚いてしまいました。
来歴はよくわかりませんがベネッセの福武氏が購入したと思われます。
作品も晩年の睡蓮連作のうちの佳作が集まっております。
そして思わず唸ってしまったのが展示空間のデザインです。
モネのために設計されたという空間でなんと土足厳禁。
床の敷石というかタイルみたいなとりあえず特別な材質がしかれており、
とても居心地がいい。
ホワイトキューブで、天上は非常に高く、間接照明のためやや暗い室内は、
確かにモネを見るに相応しいものでありました。
日本には国立西洋美術館を始め多くのモネの作品がありますが、
ここで鑑賞したモネが最も印象的で美しく感じました。

  • ジェームズ・タレル
ジェームズ・タレル(James Turrell, 1943~)という作家は、
直島に来る前は名前すら知らなかったのですが、
ものすごいインパクトのある現代アーティストです。
光を巧妙に使い、人間の知覚の課程そのものを芸術作品にしてしまった、
というべきでしょうか。
本当は白いはずの壁面を脳内の補正で橙色に見せてしまったり、
有限の空間がどこまでも無限に広がっているように見せてしまったり
人間の脳が作る不思議な錯覚を利用します。
空間の演出の仕方は非常に幻想的で、人間の視覚の虚をついたトリックは
なんとも言えない複雑な感情を喚起します。


李禹煥美術館
奥に見えるのが李禹煥美術館。
韓国出身で「もの派」の中心的作家として日本を始め世界各国で活躍した
李禹煥(Lee Ufan, 1936~)の個人美術館です。建築やその周辺の
順路設計も安藤忠雄によるもので、やはり自然の地形を利用した非常に律動的な
平面プランです。建築までの導線設計や広場の空間設計は素晴らしいと感じつつ、
美術館の中に入ってしまうと完全に李禹煥の作品世界に飲まれてしまいます。それほどまでに彼の作品の持つ力はすごかったです。絵画、彫刻、インスタレーションと様々な作品形態がありながら、どれもミニマルな表現の中にしっかりと重いストロークというか、作家の制作の熱が伝わってくるのです。難解さの中にどこかポップなデザインセンスを併せ持つ素晴らしい作品群でした。 


家プロジェクト
家プロジェクトとは、直島の本村地区において、古い家屋を改修したり、
新たに建造しなおされた建築の内部空間を、芸術として作品化したプロジェクトで、
本村地区に計6つの作品があります。

「石橋」:内部にはなんと千住博の日本画が飾られています。
母屋には《空の庭》というおそらく水墨画の作品が、
そして、蔵には《ザ・フォールず》という作家の真骨頂たる
滝の絵が、絶妙な自然光照明のもと展示されており、まさしく
鳥肌モノでした…。

「碁会所」:須田悦弘による《椿》という作品があります。
作家は非常にリアルな木彫を手がけることで有名です。
もちろん木彫による技巧的な作品を見れるのですが、
真と虚が二重に対比されるというトリックがすごい…。

はいしゃ:大竹伸朗が内装・外装を全面的に作品化したもの。
外装とは裏腹に、内部空間には、ミニマルな空間があったり、
いきなり自由の女神があったりと見所満載です。

護王神社:透明な階段が、この社の下にある洞窟への
コンテキストを作り出しているという、これもなんとも
神秘的・象徴主義的な作品。作家は写真家として知られる
あの杉本博司
南寺:この建物は地味に安藤忠雄(またか!)の設計。
で、内部空間にある作品はジェームズ・タレルによるもの。
人間の目の持つ暗順応なる働きを作品として切り取った
作品があります。人間の資格の虚をつくのが本当に巧い作家です。

(後半へ続く)

2011年10月7日金曜日

横浜トリエンナーレに行ってきた。



▼ヨコハマトリエンナーレ2011
トリエンナーレとは3年に一度開かれる展覧会であり、日本では横浜の他、愛知のそれが有名である。今回の横浜トリエンナーレは第四回目で、本企画の開催にあわせて横浜市の様々の地域で「OPEN YOKOHAMA 2011」と銘打ち、連携企画が開催されていた。 本イベントには「OUR MAGIC HOUR」というタイトルが冠されている。(この展覧会タイトルはもともと横浜美術館の建物頂上に配置されている虹のような作品のタイトルである。)
科学では解き明かせない世界や日常の不思議、魔法のような力、神話、伝説、アニミズムなどを基調とした作品に注目し、普段意識することのない忘れ去られた価値観や人と自然との関係を再び考える事によって、より柔軟で開かれた世界との関わり方や、物事・歴史の異なる見方を示唆しようとするのが本企画の主旨である。考古学資料から、近代絵画芸術、現代芸術、写真・映像媒体、インスタレーションなど、古今東西実の多様な作品が、「OUR MAGIC HOUR」という切り口のもと再構成され展示されている。

▼展示スペースの”らしさ”が表れる
今回のトリエンナーレは横浜美術館と日本郵船倉庫(BankART Studio NYK)がメイン会場であり、その2つの展示場所の性格が色濃く反映されていると言える。横浜美術館の場合、マグリットやエルンストなど常設展示で見られる近代絵画の所蔵作品が数多く展示されていて、そこには横浜美術館”らしさ”、つまり、その美術館の「色」が十分に表れていた。
同じく日本郵船倉庫(BankART Studio NYK)の場合も展示スペースの性質が展示物の性格に良く呼応している。ここの内装は、かつての倉庫の姿を敢えてそのまま残しており、コンクリートのうちっぱなしだ。無骨で無機質な展示スペースには、敢えて植物や土など有機的な材料を用いた作品が多く、印象的な対比をなしていた。
会場設計と作品の展示構成が良く練られた良質な企画だと言うことができる。

▼展示作品
ひたすら自由なドローイング。横トリのための作品。

ぬぼ〜

この光は、別の場所にいる子供たちの動きに連動しているらしい。

半跏思惟像。骨になってしまった…。

泥でできたカバ。展示期間が進むにつれひび割れがめだってくる。
それも作品の一部なのでしょう。

ぐるぐるの中にぐるぐる。しかしそのぐるぐるの招待は…
あと、奥に見えるのはオノ・ヨーコの電話ボックス。

ファンシーな世界観。

▼知識が無くとも楽しめる。
ただ純粋に作品に向かい合うだけで純粋に「楽しい」と思える。中には参加型の作品もあり、鑑賞者が作品を組み立てたり、作品の一部となったりできる。また、形式だった章立てが無いため、それぞれ展示作品の関連性を自ら見出し、展覧会を自分なりに再構築できるかもしれない。 現代アートは表現の手法や主題のあり方が多様化し、時として人々に難解な印象を与え、敬遠される。しかしながら、この企画は前提知識を全く必要とせず五感でただ感じるだけで鑑賞者に「楽しさ」を提供できるように設計されていると感じられた。(逆に言うとこの企画展からは知識を得ることはほとんどできない。)

▼街おこしの中心としての美術展
しかし、最も注目すべきは町全体のイベントの中心として美術展が据えられていることだ。トリエンナーレの開催により、町全体でさまざまなイベントが同時開催され街並は活気づき、地元の経済的利潤を生んでいる。 アートはこのように地域コミュニティの活性化としても大きな力を持っていると実感できるイベントであった。

2011年6月16日木曜日

五百羅漢見てきた。渾身のドヤ顔だった。

五百羅漢展に行ってきました。

法然上人八百年御忌奉賛 特別展「五百羅漢―増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信」

【公式HP】http://500rakan.exhn.jp/
【会期】平成23年(2011)4月29日(金・祝)~ 7月3日(日)
【会場】東京都江戸東京博物館
【主催】東京都江戸東京博物館、増上寺、日本経済新聞社
【監修】山下裕二(明治学院大学教授)
【企画協力】浅野研究所
【協賛】Color Kinetics Japan、三菱レイヨン、リリカラ

▼宗教図像としての五百羅漢

五百羅漢とは仏教における宗教図像の一つで、簡単に言ってしまえば、釈迦の教えを実践し布教する500人の弟子たちのことです。彼らは釈迦譲りのパワーを身につけ、人々を救済し、悪を懲らしめるのです。
中国で生まれた羅漢信仰は、日本では江戸時代以降に普及します。なので日本画史の中では若い図像ということができ、作例もそこまで多くはありません。

そして今回の狩野一信の五百羅漢は、とーっても分かりやすく、羅漢が5人ずつ描かれた画を100幅制作したのです。5×100の500人。分かりやすいですが、とても燃費の悪い構想をよくもまぁこんなに気合十分に描き上げたものです。(正確にいうと96幅描いた後、没した。)

▼絵師 狩野一信

狩野派というと、室町時代を端緒として、江戸時代には将軍家や皇族という協力なパトロンのお抱えの絵師となり、アカデミック・オブ・アカデミックといった存在です。画風で印象深いのは唐獅子で有名な狩野永徳でしょうか。
狩野派は最も「ゲテモノ」的な絵と縁遠い存在ですが、狩野一信の画風は…失礼ですが「ゲテモノ」そのもの…。
しかし、曾我蕭白や伊藤若冲といった超絶技巧の奇想の画家がそうであるように、現代では狩野一信の絵も人気を博すのでしょう。圧倒的な技巧で、これでもかと言わんばかりに絵で画面を埋め尽くし、観者には嫌悪感にも似た強烈なインパクトを与えます。
第51幅 神通 (増上寺)
過度な装飾を嫌い、シンプルであることを美徳とし、余韻あふれる情緒豊かな表現を尊ぶのが、日本人の「良き」感性でありますが、狩野一信の描く人物の顔、色彩のケバケバしさと言ったらまさに反骨精神の塊でそれが実に気持ちいいのです。曾我蕭白であったり、河鍋暁斎であったり、歌川国芳であったり、いわゆる「『美』をブチ壊す系」の絵師は、ぼくは大好きです。
第50幅 十二蛇頭 路地常坐
あとは秋田蘭画の影響を受けたのか、西洋の合理的な空間把握や陰影法が登場するのもおもしろいところです。この絵なんてドイツロマン主義の風景画家のフリードリヒみたいです。

▼渾身のドヤ顔

ぼく的に見所はひたすら、羅漢さまのドヤ顔。もう本当に渾身のドヤ顔です。もう圧倒されます。
どや?
日本にはイカツイ形相の図像は数多くあります。不動明王、四天王といった図像はいかにも恐ろしい威圧的な面構えをしており、まさに鬼の形相といえます。東大寺の南大門に安置される金剛力士像を思い浮かべるとピンとくる、ああいう系の顔です。
ただぼくが思う「ドヤ顔」とは、すこし違う気がします。威圧的な威厳を放つ怒りの表情がそれに当たるのではなく、尊厳やプライドが滲み出て、高慢とまではいかないまでもどこか自慢気な表情という感じでしょう。
どや?   ドヤッツ!
今では、市民権を得て広く普及したドヤ顔ですが、まさにこういうコッテリ系のおじさまの表情にふさわしい言葉だと思いました。
ふはは、ドヤァァ
普段草食系男子のぼくも、この企画展を見てドヤ顔パワーもらいました。

草食系の男子よ、是非きたれ。