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(ⅱ)Caspar David Friedrich, 1774~1840.
フリードリヒの作品の中でも、心的綱領となる作品について論を進める上で、作家の半生を追い、様式を概観することは不可欠である。ここでは、イエンゼンの記述(註24)に範をとりながら、作家の生涯のハイライトと作品の様式・諸特徴、そして最後に、歴史的評価について言及していきたい。
(a)略歴
1774年7月5日、ドイツ北東部のバルト海に面した小都市グライフスヴァルトにて生まれ、1840年5月7日ドレスデンにて没っした。フィリップ・オットー・ルンゲ(註25)とともにドイツロマン主義の先駆でありである。
ー様式形成
石鹸・蝋燭業を営むアドルフ・ゴットリープ・フリードリヒの6男として生まれた。家庭教師によって一般教養を学んだ後、1790年から1794年までグライフスヴァルト大学のヨハン・ゴットフリート・クウィストルプ(註26)に師事しエッチングや素描を学んだ。ついで1794年から1798年まで、コペンハーゲンの美術アカデミーで絵画技法を学んだ。フリードリヒはこの頃、規律のとれた絵画マナーを発展させたが、作例として《東屋のある風景》(図版2)がある。アカデミーで彼に影響を与えた重要な人物として、アビルドガード(註27)、ユエル(註28)、ロレンツェン(註29)、ヴィーデヴェルト(註30)がいた。その中でもユエルとアビルドガードからの影響は晩年のフリードリヒの絵画においても色濃く現れている(註31)。
1798年、コペンハーゲンを後にし、以降の人生のほとんどをドレスデンで送った。ドレスデンの伝統に従い、綿密な自然の模写を重ねた。エッチングによる最初の風景画の作品群を制作した際には、小道、橋、川、木々、遠景の丘、街並みといった象徴的なモチーフは既に用いられていた。光と影の対照的なコントラストも顕現していた。1801年から1802年は、グライフスヴァルト滞在し、リューゲン島にも足を運んだ。その間に、アドリアン・ツィング(註32)に比肩するセピア画による風景画の大作を制作した。彼のセピアのスケッチや肖像画は賞賛を受け、ゲーテの知遇を得て、1805年ヴァイマルの第7回美術展に出品したところ、《初夏の巡礼》(図版3)が受賞した。1801年制作の木版画《女と枯木に張った蜘蛛の巣》(図版4)は、人物の心的状況の表れとしての風景が既に描かれている。一日の時間や、四季、人生の諸段階を描いた風景画連作がフリードリヒの1800~1810年代の主たるテーマとなった。人物像は風景、または木々といった風景の要素に頻繁に対置されたが、これはルンゲからの影響である。二人の画家は1801から1802年、グライフスヴァルトで出会い、ルンゲも1803年から1805年まではドレスデンに住んだ。フリードリヒは1803年から1804年においてルンゲがそうしていたように、宗教から霊感を得た詩を創作している。
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図版2
C.D. フリードリヒ《東屋のある風景》
1797年、ペン・墨・水彩、ハンブルク、ハンブルク絵画館。
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図版3
C.D. フリードリヒ《初夏の巡礼》
1805年、セピア、ヴァイマル、Kustsammlungen zu Weimar。
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図版4
C.D. フリードリヒ《女と枯木に張った蜘蛛の巣》
1803-04年、木版、ハンブルク、ハンブルク絵画館。
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ー積極評価の時代 風景画の新しい可能性を示唆
1807年には、フリードリヒは油彩による制作を開始した。ボヘミアのテッチェン城の礼拝堂を飾る祭壇画の制作をトゥーン・ホーエンシュタイン伯爵夫人(註33)から依頼されたことも油彩の導入と無関係ではない(註34)。完成した油彩《山上の十字架》(図版5)は風景画は宗教画たりえるという画家自身の考えを具現化したものだった。風景により敬虔な宗教画を構成するという考えー神は自然によって自らを表現し人間は信心の行為として雄大な風景を眺めるという考えーは、ルター派プロテスタンティズムから発生し、シュライエルマッハー(註35)やコーゼガルテン(註36)によって支持された。フリードリヒは1785年から1792年の間に、シュライエルマッハーとコーゼガルテンとも知遇を得ている。フリードリヒは《海辺の僧侶》(図版6)においてさらにこの考えを表現した。この2つの絵画は厳しい批評を受けつつも、ロマン主義者から熱烈に支持された。
《海辺の僧侶》とその対になる《樫の森の修道院》(図版7)は、1810年のベルリンにおけるアカデミーに出品され、《樫の森の修道院》は15歳のプロイセン皇太子(註37)の購入するところとなった。この絵画にはフリードリヒの主たるモチーフである中世の教会の廃墟が描かれている。樫の木々は異教徒を象徴し、棺をひく修道士たちの列は墓地を横切り、福音の世界を象徴する祭壇の薄明かりへと向かっていく。明るい空は、死や墓地を象徴する夕暮れ、もしくは、希望や復活を表す朝方を示している。この観点から見るフリードリヒの風景画は崇高のモチーフが支配的である。《虹のかかる山岳風景》(図版8)は寂しく不穏な嵐が顕著であり、《リーゼンゲビルゲの朝》(図版9)の霧がかった山頂は、当時のフリードリヒの山景に対する精神性の高さを表している。この油彩はワイマールで1812年に展示され、プロイセン皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の購入するところとなった。
ドレスデンがフランス軍に占領中の際、フリードリヒはエルブザントシュタインゲビルゲに滞在し、1813年3月のドレスデンの解放を祝う愛国的な展示に参加した。愛国的な趣向の表現は、《帆船にて》(図版10)や《月を眺める二人の男》(図版11)の伝統的なドイツ人の衣服の人物の登場において見て取ることができる。こうした装束はナポレオンへの敵意の一部として理解できる。古きドイツ民族の衣装は1815年頃から着られ始め、1818年には学生、文筆家、芸術家の間で広く普及した。しかし1819年のカールスバートの決議によりそうした思想家は扇動者とみなされ、この装束も禁止された。しかしフリードリヒの絵画においては以降も頻出した。
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図版5
フリードリヒ《山上の十字架(テッチェン祭団画)》
1807-8年、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。
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図版6
C.D. フリードリヒ《海辺の僧侶》
1809年、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。
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図版7
C.D. フリードリヒ《樫の森の修道院》
1809年、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。
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図版8
C.D. フリードリヒ《虹のかかる山岳風景》
1813年、油彩、エッセン、フォルクワング美術館。
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図版9
C.D. フリードリヒ《リーゼンゲビルケの朝》
1810-11年、油彩、ベルリン、ナショナルギャラリー。
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図版10
C.D. フリードリヒ《帆船の上にて》
1813年、サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館。
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図版11
C.D. フリードリヒ《月を眺める二人の男》
1819-20年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。
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ー晩年、消極評価の時代へ
1818年から1820年の間に、フリードリヒは左右対称の原則を非対称へと変容させていった。1818年の《雲海の上の旅人》(図版12)や1820年の《窓辺の女》(図版13)などに見られるように人物を強調するようにもなった。しかし、その人物のどれもが個を特定させない後ろ姿であることは興味深い。また、この時よりポジティブな主題よりも皮肉的な主題が優勢になり始めた。《リューゲン島の白亜の断崖》(図版14)では、前景の三人の人物はとても不安定な足元に立っている。1823年よりダールと実りある友好関係を築き、お互いの画業に少なからず影響を与えあった。フリードリヒの絵画はより色彩を増し、さらに死と再生、生命の儚さといった主題を風景表現の中に託していったのもダールの影響による。既に二人ともドレスデン美術アカデミーの教授となっていたが、1824年に風景画の指導ポストに空席ができたにも関わらず、フリードリヒはその要職に就けなかった。これは当時のビーダーマイヤー(註38)的な社会的風潮によるフリードリヒの評価の限界を示していた。同年、本論の対象である、《氷海》(図版1)が制作される。
フリードリヒに対する社会の無関心は拍車がかかり、フリードリヒは経済的にも身体的にも苦難を迎える。1830年の手記『現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主とするコレクションを見ての見解』(註39)の中で、フリードリヒはナザレ派の理想主義、保守的なビーダーマイヤー的傾向、アカデミーに与する批評家の要求など、当時の画壇・画家のあり方を総じて批判した。同時に自分自身が美術の世相から孤立していることも自覚していた。しかしながら、1832年の《広大な囲い地》(図版15)や1835年の《人生の諸段階》(図版16)は自身の画業の中でも最も色彩が美しく、画家の心情を力強く美的に謳った作品を残しているのは興味深い。1835年、脳卒中に倒れほとんど半身不随となる。そのころは技法はセピア画に回帰する。晩年の作品は彼の肉体的な衰微が見て取れるものの、死と復活を連想させるようなモチーフを用いた力強い作品は多い。1838年ドレスデン美術アカデミーにて最後の展覧会を経験し、1840年その人生の幕を閉じる。
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図版12 C.D. フリードリヒ《雲海の上の旅人》 1818年、ハンブルク、ハンブルク絵画館。 |
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図版13 C.D. フリードリヒ《窓辺の女》 1822年、ベルリン、ナショナルギャラリー。 |
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図版14
C.D. フリードリヒ《リューゲン島の白亜の断崖》
1818年、ヴィンタトゥール、オスカーラインハルトコレクション。
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図版15
C.D. フリードリヒ《広大な囲い地》
1832年、油彩、ドレスデン、ノイエマイスター絵画館。
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図版16
C.D. フリードリヒ《人生の諸段階》
1835年、油彩、ライプチヒ、造形美術館。
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【註釈】
24 Jens Christian Jensen による記述。The Dictionary of Art, ed.Jane Turner, vol , p.778-784.
25 Phillip Otto Runge, 1777-1810. ドイツロマン派の立役者の一人。フリードリヒと同様、宗教性・寓意性に満ちた風景画を数多く残すが、フリードリヒに比すと、子供など人物も主たるモチーフとしていた。
26 Johann Gottfried Quistorp, 1755-1835. グライフスヴァルト大学にて教鞭をとっていた。
27 Nicoraj Abraham Abildgaard, 1743-1809. デンマークの新古典主義の画家。スカンディナヴィア人やドイツ人の神話や歴史に対するフリードリヒの情熱を鼓舞した。
28 Jens Juel, 1745-1802. デンマークの画家。肖像画に定評があるが、彼の風景画は明快な構成力において特筆すべきである。
29 Christian August Lorentzen, 1749-1828. デンマークの新古典主義の画家。
30 Johannes Wiedewelt, 1759-1802. デンマークの新古典主義の彫刻家。
31 註15に同じ。とりわけ《東屋のある風景》(1794年頃、ペン・墨・水彩、ハンブルク絵画館)の情緒的気分を喚起する空間としてのイギリス式庭園に端的に現れている。
32 Adrian Zingg, 1734-1816. ドレスデンにおけるセピア画の大成者。
33 Graf Franz Anton von Thun-Hohenstein, 1786-1873. 絵画制作を依頼する1807年においては結婚前であり、1808年にBrühl伯爵令嬢と結婚。
34 註15に同じ。
35 Daniel Friedrich Schleiermacher, 1768-1834. プロテスタンティズムを発展。「神は風景によって自らを体現する」とした。
36 Ludwig Gotthard Kosegarten, 1758-1818. グライフスヴァルトの詩人、ルター派牧師。汎神論者。大学で学んだ。自然は人間と神の仲介者であるとした。Gottfried Ludwig Kosegartenの父にあたる。
37 後のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795-1861)。在位1840-1861。1848年には、パリ二月革命に伴うベルリンにおける市民と軍の衝突を経験し、プロイセン欽定憲法を制定したことで知られる。
38 ヴィクトル・フォン・シェッフェル Joseph Victor von Scheffel, 1826-1886. の出版した読み物の中に登場する「ビーダーマン」と「ブンメルマイヤー」という二人の典型的な小市民の名から取られたものであるが、それがやがて彼らに代表される当時の市民階級の生活様式の基調となった簡素な家具様式、あるいは室内用式の様式に転用された。
39 Äusserung bei Betrachtung einer Sammlung von Gemälden von grösstenteils noch lebenden unlängst verstorbenen Künstler. 1830年頃のものと推測される備忘録。実際に催されたか、架空かはわからない展覧会につい自身の見解を述べている。鑑賞したコレクションは一つではなく複数の可能性。日本語訳あり。(神林恒道・仲間裕子編訳『ドイツ・ロマン派風景画論』、三元社、2006年。)
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